Death’s Web

桜の花はちらほら咲き始めたが、昨日は雪が降っていた。
車のバッテリーがまた上がった。
春になると学生だったころの考えとか、いろいろと思うところが出てくる。
そういうことを書きとめるためのブログだから、過去にも何度も言ってきたかもしれないが、また書いておこう。

無神論的立場表明

いまどき改めて表明するほど珍しい意見でもないが、私は神様とか、死後の世界であるあの世、とかの存在を信じてはいない。もちろん、無限とか、宇宙の果てとか、超越者というような概念は存在しうることは理解しているが、言及できないものにしろ、自分の死後には、自己意識の消失があり、時間的に継続していると感じられる現在の自分の意識にとって何か決定的な変化、が訪れ、その事態は、私の外部からすると、私の消滅、と言わざるを得ない事態であることを理解している。
そういう死生観に立つと、死後の報奨を求めて生前に道徳的善行を積もうというようなモチベーションは消失するわけで、現世利益が得られる方向で常に私のモチベーションは動く。つまり自分の死後に誰かが得をするというような、生命保険には基本的に興味がない。
しかし、その現世利益が、刹那的なものでよいか、ということになると、そうでもない。
例によってDialogueより引用

2-9
中略
ペネトレ:まえに、ちゃんとした人とどうしようもないやつの区別をしたの、覚えてる?(→1-3)ちゃんとした人っていうのは、自分の未来のために自分の現在を犠牲にできる人のことなんだ。逆に、自分の現在のために自分の未来を犠牲にしちゃうのがどうしようもないやつさ。ついでにいえば、他人のために自分を犠牲にできるのが善人で、自分のために他人を犠牲にしちゃうのが悪人なんだけど、善人や悪人になれるのはね、ちゃんとした人だけなんだよ。どうしようもないやつは、ちゃんとした悪人にさえなれないんだよ!
後略

闇金ウシジマ君」とかではこの「どうしようもないやつ」ばかりがこれでもか、と描かれるわけだが。
この略した部分にも重要なことが書いてあり、「ネクラ」な人は、ちゃんとした人になるために、何らかの理想が必要、ということが言われる。
自分は現世利益も、ちゃんとしたものが欲しいので、未来のために現在を犠牲にすることは厭わない覚悟はあるのだが、もとが「ネクラ」で、かつ理想がないので、非常に苦労する。

外来患者は増やした方がいいのか。
貯金はなんのためにするのか。
健康維持のために、毎朝、心に鞭打って寒い中ランニングに出て行くのは、果たして本当に「楽しい」か。
何らかの創作活動をするとして、それは本当に自分一人で楽しめるものか。

未来のことを考えるとき、こうした迷い、というかこうした不透明感がつきまとう。

昔の自分への弁明

昔、社会と隔絶した学生だったとき、当時の学生仲間や、付き合った女性などに、
「世界」、「独我」、「他者」とか大げさな言葉を使いながら、純粋な、言い方を変えれば地に足の着いていない、世迷いごとをいろいろと述べていた。
現在の私にとって、当時の私が述べていた言葉はすべて嘘っぱちだったのか。
少なくとも、誰かを惑わせたり、困らせるために意図的に嘘をついていたわけではない。当時の私も真剣に、その時の私の中では誠実に、認識のしくみ、世の中の仕組み、自分の考えといったものに向き合って、紡ぎだしていた言葉たちだ。
でも、勘違いしていた部分はある。異性に対する配偶という観点からの好意に、他者との共感できるということの偶然性、とか対話可能なことの一般的な喜びを、ジッドの作品の実存性とか、トーマスマンの小説に出てくる孤独感とかをすり寄せて、何か高尚な、奇跡的なものであるように、取り扱うことで、結局、現実的な人間関係を築けないでいた。
他愛もない会話や愚痴で過ごす、ごく普通の友人としての関係も、普通の恋愛感情による恋愛も、軽蔑するべきものでもないし、高尚なものでもない。ごく普通に存在し、人間が普通に暮らしていくために当然必要であり、自分にも当然生じる関係であり、感情であった。それを、自分に関わるものだけを特別な奇跡のように感じ、それに特別な言葉を当てはめようとした。言ってみれば、それは勘違いであった。
そうした私の勘違いを、相手にせず、軽くあしらった人もいるだろうし、同じ視点で、真剣に(少なくとも私にはそう感じられた)相手にしてくれた人もいた。そうした、相手にしてくれた人に対して、当時の言葉と現在の私の考えや暮らしぶりが、少なからず乖離している事実について、何か申し訳ないような気もするが、どちらの私も事実として存在していたのであり、誰かを困らせるつもりは今も昔も、無かったのだ、と言う他ない。