昔の自分への弁明

昔、社会と隔絶した学生だったとき、当時の学生仲間や、付き合った女性などに、
「世界」、「独我」、「他者」とか大げさな言葉を使いながら、純粋な、言い方を変えれば地に足の着いていない、世迷いごとをいろいろと述べていた。
現在の私にとって、当時の私が述べていた言葉はすべて嘘っぱちだったのか。
少なくとも、誰かを惑わせたり、困らせるために意図的に嘘をついていたわけではない。当時の私も真剣に、その時の私の中では誠実に、認識のしくみ、世の中の仕組み、自分の考えといったものに向き合って、紡ぎだしていた言葉たちだ。
でも、勘違いしていた部分はある。異性に対する配偶という観点からの好意に、他者との共感できるということの偶然性、とか対話可能なことの一般的な喜びを、ジッドの作品の実存性とか、トーマスマンの小説に出てくる孤独感とかをすり寄せて、何か高尚な、奇跡的なものであるように、取り扱うことで、結局、現実的な人間関係を築けないでいた。
他愛もない会話や愚痴で過ごす、ごく普通の友人としての関係も、普通の恋愛感情による恋愛も、軽蔑するべきものでもないし、高尚なものでもない。ごく普通に存在し、人間が普通に暮らしていくために当然必要であり、自分にも当然生じる関係であり、感情であった。それを、自分に関わるものだけを特別な奇跡のように感じ、それに特別な言葉を当てはめようとした。言ってみれば、それは勘違いであった。
そうした私の勘違いを、相手にせず、軽くあしらった人もいるだろうし、同じ視点で、真剣に(少なくとも私にはそう感じられた)相手にしてくれた人もいた。そうした、相手にしてくれた人に対して、当時の言葉と現在の私の考えや暮らしぶりが、少なからず乖離している事実について、何か申し訳ないような気もするが、どちらの私も事実として存在していたのであり、誰かを困らせるつもりは今も昔も、無かったのだ、と言う他ない。