自分の死後にも責任を持つべきか?

最近、どこかで私の個人情報が売られたのか、今日はやたら生命保険の勧誘や、節税目的のマンション販売営業の電話がかかってきた。
結論としては、現在私の勤務する個人医院の資産は、私の父が築いたもので、私が勝手に運用して良い筋のものではないので、私は資産運用や、節税を行わない、という父の方針を守るだけだ。
ただ、私が法人から支払われる、自分の給料を削って法人の経費として生命保険の被保険者となることには、私の一存で決定して何の問題もない。生命保険会社、または代理店の人は、1経営者として、自分が急に死んだときに、自分の生命保険から、雇用者の退職金や、自分の死亡退職金を法人から自分の遺族に支払うことは、最低限の責務だ、というようなことを言われるわけだが、その辺のところ、どう考えるべきなのだろう。
もちろん、現在法人には十分な普通預金があるから、私が急に死んでも、まあ、なんとかなるし、しかも父がまだ生きているのだから、すぐに医院を清算しないといけないわけでもない。
それはそれとして、自分の死後、あとに残された人たちのことを、本当に私は考えるべきなのだろうか?
自分の意識が消失した後に、誰がどう困ろうと、または、生命保険のおかげで、私の死がどれほど歓迎されようと、それを私は認識できないのだから、「後は野となれ」と言うしかないのではないか。
私は今の時点で、自分の死後も自分の遺伝子が、子供という形で続いて行くはず、という「幻想」にある程度支えられているから、子供たちの生活が私の死によって全く困窮したものになるような形にはしたくない。これは、現在の私の気分に関わる問題だから、そこは「野となれ」というわけにいかない部分だ。だから、借金を子供たちに残すような真似はすまい、とは思うけれど、財産をたくさん残してやることが、子供たちの幸福につながるとは思わない。幸福につながるかつながらないか、死んだ私にはわからないけれど、生きている私の気分は、そういう気分なのだ。


同様に、税金対策をしながら、自分の退職金を積み立てる、という形で生命保険を貯蓄として利用する方法に関しても、理解はしたし、法人の黒字が大きすぎるようなら、今後は利用することもあるだろうとは思うが、年をとって、よぼよぼになってからたくさんお金をもらったところで、何の喜びもないだろう。この仕事をかなり高齢に(自分としては70歳くらい)なるまで続けていく可能性もあると思っているから、そんな歳になったらもう大金は要らない。

70歳くらいまで仕事を続ける見込み、と書いたが、実際、自分がいつ死ぬかはわからない。5月9日に京都に車で出かけるつもりだが、その途中の高速道路で事故死するかもしれない。
親族にたまたま癌罹患者はいないから、癌になる可能性は低い方だと思っている。反対咬合で咀嚼能力が弱く、偏食があるが、持病は無く、適度に運動をしているし、生活習慣病に対しても一応は縁遠い位置にいるつもり。
自分の死ぬときがイメージできず、自分の死に備える、ということが、どうすることなのかがわからない。
交通事故に遭うかもしれないし、犯罪に巻き込まれるかもしれない。道端で不良に絡まれ、侮辱に耐えきれず無謀な抵抗をして殺されるかもしれないし、子供を助けるために死ぬかもしれない。いつか必ず死ぬ、ということだけははっきりとわかるけれど、いつ死ぬかは本当にわからないし、死ぬために生きてるわけではない。



うーん、なんだろう、もう少し考えたら、死を別の形で捉えられそうな気がするが、ちょっとそこまで突き抜けられない。



自分が死に備えて何かをするとしたら。おいしい食べ物をたくさん食べたり、十分に言葉を連ねたり、音楽を聴いたり奏でたり、自分が気に入った物を絵に描いて残したり、家族と楽しい思い出を重ねたい。
将来に備えて蓄えをするのは、将来にそれを十分に味わえる自分がいる見込みがあってこそのことだ。その見込み以上の蓄えをするくらいなら、今を存分に楽しむために使ってしまうのがいい。子供たちに残すものは、遺産よりも思い出がいい。
結局今年はトカラに皆既日食を見に行くのは無理そうだが、そうした、滅多にない子供の記憶に残りそうなイベントには、あまり金を惜しまず、見させてやりたい、と思う。鹿児島位に行けばよく見えるかな、、、