「癒し」は必要か

自然と触れ合って癒されるなどという表現に出会うたびに違和感を覚える。
現代社会はストレスが多く、そこで暮らす人間は常にダメージを受けている状態で、それが「癒し」対象と接触することで癒される、というのが一般的な考えのようだ。
けれど、本当に人間はそんな自然から乖離した特別なダメージを受けているのだろうか。
自然界でも、生命にとって困難な状況というのはごく普通に立ち現われ、その勝敗により、自然淘汰が行われている。人間の、社会におけるさまざまな困難も、根本的には変わらないだろう。それをストレスという特殊な言葉で、特別自然と乖離したものとして扱う必要があるだろうか。
そしてそれをまた「自然」的なもので「癒す」必要があるだろうか。
自然が五感にとって美しく感じられるから、それを見たい、近づきたい、というのはあり得る現象で、それは素直にその気持ちに従えばいいだけのことで、その現象に特別「癒し」などという表現をする必要はない。見たいもの、良いと思うものに近づこうとするのは、ただありのままにそういう欲求があるからそうする、との解釈でよいのではないだろうか。

実際には、「癒し」が必要となる場合も確かにあるだろう。簡単な例でいえば、近視。屋内で近いところばかり見るような生活では、眼内筋が弱り、近視が進む。遠方を見る機会が増えるように屋外に出ることは、確かに近視という点からは「癒し」になるだろう。精神疾患心身症についても同様の説明は可能かもしれない。

とすれば私の言いたいのは、世の中に出回っている「癒し」という言葉の多くが不適切に使われている、ということだ。本当は「癒し」などではなく、自分の欲求に従って動いているだけであるのに、それに「癒し」という表現をすることで、さも自分は何らかの「疾患」を患っており、現在の自分の行為はそれを治癒しようとする当然の自分の権利である、と言いたげなさまざまな自分勝手な行為に対して、それはおかしいだろう、と感じている。そういうことだ。

人並みに社会の中で生活し、意に沿わない状況を乗り越えないといけない場面にも多く遭遇しているつもりではあるが、少なくとも私は何かに癒されたい、と思ったことはない。