Evidenceの信頼性

医療においても日常生活においても、何か情報を利用するとき、その情報が果たして信頼できるものかどうかをどうやって判断するか。

私は一般に受け入れられている、大多数に受け入れられているという事実よりも、自分自身の経験と信頼のおける友人、知人、それはつまり私が自分の眼でその信頼性を高く評価した人物の意見を重要視したい、という内容を書くつもりで、以下の記事を書きました。錯綜して長くなったので「続き」に入れておきます。
医学系論文にはインパクトファクターという指標がある。これは、ある論文が、他の論文にどれほど多く参照・引用されているか、ということを数値化した値で、インパクトファクターが高い発表内容ほど、世界に多くの影響を与えた発表と言うことになる。一番有名なのはイギリスの科学雑誌「Nature」で、Natureに論文を載せることができれば、信用性が高く、皆に影響力の大きい発表をすることができた、という様に解釈される。そして、たとえば大学の医学部の教授戦などある場合は、その教授候補の書いた論文のインパクトファクターが、その教授の客観的な能力として評価される場合が多い。人望があり、手術も上手い教授候補が、論文のインパクトファクターで劣るために、教授になれなかった、というようなことも起こる。
けれど、Natureに乗ればその情報は本当に信頼できるのか。確かにNatureに所属する論文の審査団体によりかなり厳しく論文の信頼性はチェックされていることだろう。それがNatureという雑誌の権威を守っていくからだ。それでも過去にNatureに掲載された論文の内容で、現在となっては誤りだったと判明している内容はいくらでもある。
では、どうやって自分は情報の信頼性を確認すればいいのか。
結論としては自分の眼で確かめる、ということしかない。その仮説もしくは考えを自分の現実の行動に反映させてみて、それによって得られる結果を何度も評価するのである。もちろん、危険な賭けをするわけにはいかないから、その試行段階はやはりインパクトファクターなど外在評価に頼らざるを得ない部分はある。けれどもそれら外在評価を過信せず、常に結果を疑ってかかり、困った結果が出ていないかを意識してみていくと言う姿勢が必要だ。

どうも話が言いたいことからずれる。私はある情報の真偽を私自身が判断できないとき、むしろ、私の周りの身近な、かつ、その私が知らない情報においては私よりも造詣が深そうな、信用にたる人物の意見を参考にする。その人物が信頼に足る人物かどうかは、長時間ともにさまざまな経験をすることで、私がその人物から得た情報を元に最終的には直感で得た判断である。しかし、私はこれには「自分の眼で見る」と同等の評価を与える。

具体的に、たとえば先日話題にした、「創傷治癒」には湿潤環境が望ましいと言う情報。この情報は、①私がインターネット上で確認したのみでなく、②広く私の周りの医療施設で実際援用されている方針であり③私の直接の上司も実際の治療に取り入れており、④私の学生時代の同期の友人もこの情報を真なる情報として推している。この①〜④までそろえば、私はかなり安心してこの説を真なる情報として利用することができる。
ところが、「創傷治癒」には消毒は不要であると言う情報。これに関しては①は存在したが、②③においては完全に受け入れられてるとは言いがたい状況で④についてはその意見は聞いていないので不明である。こうなると、いかに①において力強くその説が主張されようとも、この情報の利用にはためらいがまだある。①の主張によれば②③がこれを取り入れていないのが完全な誤りでこんな医療過誤がまかり通っていいのか!と大上段でぶち上げるわけだが、逆に言えば②③がないから、①の主張にはまだ信憑性が無いのである。たしかに①の主張が正しかったことが最終的には示され、直ちにその説を取り入れなかった②③が糾弾される場合もあるだろうが、①が過ちであったとわかる場合もあるだろう。
この場合は私はどうしたらいいのか。現実的には私は①の主張の合理性を受けて、それを真として実行してみる方針を採択したわけだが、ここに④を参照すると言う方法がある。すでに①を受けて、実行していそうな④が存在すれば、彼の意見は私にとって非常に強力な根拠となりうる。

医療の領域でもう一つ例を挙げれば、「モルヒネ使用下でペンタゾシンを使うかどうか」という問題がある。手術後の疼痛や、癌性疼痛に対して、モルヒネという麻薬が使われるのだが、モルヒネの効果が不十分である場合、即効性の鎮痛薬としてペンタゾシンを使うのは、ペンタゾシンの作用が麻薬に拮抗して双方の効果が落ちてしまうので、使用すべきでないという意見が医療現場では大勢を占めている。
しかし、私は以前勤務していた病院の麻酔科医に、ペンタゾシンの効果について、麻薬の作用受容体にはμとκ二つの受容体があり、中枢性のμ受容体においては確かに拮抗作用が部分的にあるけれども、末梢の疼痛のκ受容体に関しては競合しないので、併用しても疼痛を緩和させる効果はある、という説を聞き、自分でもそれらの受容体の違いを調べた上で、モルヒネ使用下でもペンタゾシンを使用することにした。
その私の方針は、内科の副部長などに「こんなことをやっている医者は何も勉強していない医者として軽蔑する」などという扱いをされた方針ではあったが、私は使用してみて、実際鎮痛効果があったと実感している。つまり、私は内科の副部長よりも、同僚の麻酔科医の意見を信頼に足る意見と考えた。インパクトファクターとしては、一般的には内科副部長の発言のほうが、同僚の麻酔科医よりも高いかもしれない。そのインパクトファクターに逆らってまで、私が下した判断、その麻酔科医への信頼の根拠は私がその麻酔科医とすごした時間の中で私が彼に与えた直感的な評価、としか言いようが無い。
さらに例えば、病気腎移植を行った、万波医師。結局彼のラディカルな治療方針は罪には問われないようである。彼のしたことは、踏むべき手続きを踏んでいないと言う点でやはりおかしいと思うけれども、インパクトファクターを無視してでも、彼にはそれを正しいと思わせる根拠があったのかもしれない。そして、いずれはその考えが一般に受け入れられ、病気腎移植が広く行われるようになる時代が来るのかもしれない。それは時間が経ってみないとわからないことである。


このように、その説が正しかったのか誤っていたのか、症例が積み重ねられ、時間が経ってみないと結局はわからない部分がある。最終的な真実、とされるものは多くの上手く行った幸運な症例、上手くいかなかった不幸な症例たちの積み重ねの結果、得られ、また、その真実性も絶え間なくその後に積み重ねられる症例によってしか増して行かないものである。「あとだしじゃんけん」には誰も叶わない。
ただ、ペンタゾシンの話に出したように、そのとき②や③に支持されていても、結局は②③が誤りであったとわかる場合、なるべく早い段階でその誤りに気づきたい、と思う。そのために私ができることは自分の観察眼を磨いて、①②③の意見を鵜呑みにしないこと。信頼のできる多方面の友人を築いていくこである。それはつまり、信頼できる④をなるべく多く、またより信頼できる④を、それはつまり、マイインパクトファクターと言うべき数値が高い人物をどんどんと自分の周りに見つけていくという作業なのである。