ベンチプレスとシシュポス

この考えは大学生のころに意識し始めたこと。
志望校合格のために勉強するとか、試合のために練習するとか、より速く泳ぐために筋トレするとか。そういう手段としての活動を、それ自体目的として捉えなおして活動していきたいと思ってる。これはもちろん理想論で、実際には目的と手段という関係なくしては、その活動への動機が減ってしまうのは確かだけど。でもその目的は、むしろ手段としての活動を自分に与えるために設定された、と捉えなおすのがいいと思った訳で。
私が筋トレすることで得ているものは、体の骨格筋が同年齢の平均に比してかなり肥大しているという結果。宴会で脱いで見せたりしたらある程度うけるので話のねたにはなる。あとは、基礎代謝が増えることである程度食べても太らない、ちゃんとお腹が減り、ご飯がおいしく食べられる、というようなことかな。
でも、実際、何かの試合に出るわけでもなく、格闘技をするわけでもなく、肉体労働をしているわけでもなく。この肥大した筋肉はほぼ無用の長物。
ベンチプレスは持ち上げてまたおろすという運動で、社会に何も貢献しない無駄なエネルギーの使い方。せめてウェイトをおろすときに、何か発電機につなぐとか、位置エネルギーを変換すればいいのに、と時々思う。でもこれがいいんだな。
「シシュポスの神話」はカミュ。山の頂上を目指して巨石を運ぶが頂上近くで必ず石はふもとまで転がり落ちてしまう。これはまさに筋トレですね。つまり、筋トレはそれ自体を目的とするなら実存的な活動であるわけです。
私は、実存主義のなんたるかってことは分かってない。ニーチェについて永井均や、竹田青嗣の解説したものをちょっと読んだことはあるけどもうほとんど自分なりに分かるところを受け取っただけ。あ、でも永井均ニーチェ解説の本の出だしに、「星の銀貨による3つの変奏曲」という寓話があって、これはわかりやすい形で、倫理というものの捉え方を抽出してるなあと思った。
ただ、人間がなにか積み上げていくように活動していっても、死んでしまったらすべてが無になるという、ニヒリズム。自我の消滅とともに、たとえ業績が人類に受け継がれていっても、そのことは消滅した自我には無意味なものとなる、という虚無感。それはそれ以上の「結果」が自我にとって残ることを期待するから生じる虚無感であって、「結果」を活動そのものの中に見出そうとして活動していけばいい。
ベンチプレスはあげておろす。あげられるかどうかぎりぎりの重さを力の限り持ち上げておろす。この「力の限り」ってのが重要ですね。簡単に、余裕を持ってできてしまうことではだめなわけです。そのおもりを持ち上げたらどうなるとか、筋肉がついたらどうなる、とかじゃなくて、まさに目の前にあるおもりをなんとか持ち上げる。そのことに見返りを求めるのではなくて、ただそれを成し遂げようとする。その成し遂げている過程自体が、それを成している主体にとって幸福、というのが言いすぎなら、存在しているということの証になるんだと思う。もちろんこの存在は刹那的で、時間的な「長生き」を求められるものではない。人間は直立歩行をはじめてより、時間的な長生きを求めるようになった、というのは誰の説だったか。ただ、繰り返しそのような過程を求めていくことしかできないから、そのような過程を積み重ねていくという外的状況を作り上げるために、社会的な地位とか立場とか責任とか、成果とかそういった「結果」を求める構造を自分の周りに置いておく。
社会における自分の活動の意味は、こういう形になってるのかな、というのが最近の見解です。
はあ、、、づらづら書いても分かりにくいものですね。もう少し分かりやすくまとめられる日が来るといいんですけども。
刹那主義的に生きていくことの弊害と、その対策についてはまた機会がきたらまとめてみるつもりです。

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

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ルサンチマンの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)

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