ナルシストのどこが非難されているのか

自分の体を鍛えて、鏡に映った自分の筋肉などをチェックしていると、「ナルシスト」と笑われる。
これをお笑いにつなげて芸風にしている芸人もいるくらい。では、いったい何が笑われているのか。笑われないものとは何なのか。

たとえば陸上選手が自分の体を鍛えて、全速力で走り、自分のタイムをチェックしていると、これは応援されこそすれ、笑われたりしない。努力して、自分の体を鍛え、より速く走れるようになったことに満足する。自分の体を刻んで自分が満足のいく形に造形できたことに満足する。この二つは何が違うのだろうか。
短距離走においては、そのタイムの優劣を他人と競うという要素がある。その結果優れていれば、どうしてか、多くの他人に対して貢献したかのように褒められる。ウサイン・ボルトという人はそのことで全世界の多くの人に感動を与えるほどだ。
ところがナルシストは世界には貢献しない。他人からどう評価されようと、自分自身の美の基準で自分自身を磨いて、自分の理想とする姿に近づこうとし、その近づいていく過程を楽しむ。そこでは他人の評価はほとんど無視されている。
無視された「他人」たちは、その無視を怒り、ナルシストを反感から蔑むようになるのだろう。
ナルシストが笑われる、低く評価されるのは、世界に貢献しないからだろう。

ナルシストとは:自己陶酔型の人。

語源となったナルキッソスは大層な美少年。ある日川辺を歩いていたナルキッソスは、水の中に美しい少年を見かけます。彼は水の中の少年に惹かれ、その場を動かず、来る日も来る日もじっと少年を見つめつづけていました。水の中の自分に恋してしまったナルキッソスは、やがて憐れに思った神により水仙の花に姿を変えられました。水仙は今でも水の中の自分を覗き込むように咲くのです。

Wikipediaの方は、精神疾患としてのナルシシズムについて解説しており、私の言いたいことと少しずれる。


世界人類や社会に貢献するかどうか、どの程度大きく貢献するか。すべて他人の評価はこの尺度で測られる。しかし、今の時代、人間の数が増えすぎてしまって、貢献どころか、むしろ他人に迷惑をかけないという最低限のラインを守ることの方が難しくなってきている。自分の虚栄心を追求すれば、どうしても他人の虚栄心とぶつかり合い、傷つけあう。こうした中、ナルシストとして自分の楽しみを完結していけるあり方は、むしろ皆で歓迎すべきなのではないか。