理性的な

今日は統合失調症の患者が来た。言っていることにまともに取り合わず、相手の感情に引きずられずに対応するのがプロの対応だとわかっているのに、どうしても引きずられてしまう。私は精神科の医師にはなれそうもない。
なぜ、腹が立つのか考えてみたが、筋の通った説明を、どんな子供にも、認知症の老人にも分かるように、噛み砕いて分かりやすくするその極限まで努力して説明しているのに、その「筋」を全く無視した反応を返されるから、腹が立つのだ。
人間の共通言語としての合理性。これが通用しないと全く会話が成立しない。しかし、お互い話しかけあっている以上は、最低限、どこかに共通項がある、と手さぐりしながら話していくしかない。いや、まあ、統合失調症の方を相手に、これは通用しないのは分かっているのだが。それでも私は人との会話をそういうものと捉えている。
科学、というのは集団生活を営む人間が、自然界というバリエーションに富む対象を、なんとか、共通の理解で扱って、生活していくために生まれたものだろう。
誰がやっても、大体この物体にこのような働きかけをすれば、このような結果が得られる。それを何度も試行して、そこに共通する法則を見出し、それを使ってさらに別の因果関係を導き出していく。科学はそうやって発達してきた。
理論は何度も実験によって確かめられ、確かめられたことで、多くの人間に対して力を持った。そういう因果関係とか、理論を多く身につけて、人々を導く人が、「先生」と呼ばれた。
科学が人間や自然界のすべてを解き明かしているわけでなく、他にもいろんな側面があることも、我々は受け入れているけれど、科学の合理性、因果律、などは、人間同士をつなぐ、重要な言語となっている。
もはや、多勢に無勢という形で、この科学的な世界観に立脚してしまっているので、ここからはみ出した世界観を持ち、別の独自の因果律を持っている人と、どのように接するのがいいか、分からなくなってしまった。