かたき討ちは無駄か

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第452話で語られる「マイナスよりプラスの選択を」という話。
理髪店で髪を切られて、非常に自分の思惑と違う結果になったことを恨み、同じ髪型になることを髪を切った店員に要求する、というのがマイナスの選択で、次回ただで髪を切ってもらえるよう交渉する、というのがプラスの選択という話が紹介してある。
さらに、親の敵を討った小平太が石川五右衛門に叱られる、という話。
この二つの話は、果たして同じことを示唆しているだろうか?
私はそうは思わない。
もちろん、筆者の山田氏が言っておられる、「プラスの選択を」ということの意味はわかる。その方が合理的で、生産的だ。しかし、かたき討ちは人の常として無くならない。どうしてか。
それは必要だからだ。
1番目の話で、理髪店の店員は、意図して客の意に沿わない髪型にしたわけではない。そこに悪意、故意は無い。だから、客が仕返しとして店員の髪型を変えるのは筋の通らない話だ。
しかし、2番目の話、小平太の母は、暴漢の利益のため、もしくは身勝手な自己関心的理由で殺された。とすれば、暴漢はそのことの報いを受ける必要がある。それは私的なかたき討ちであろうと、司法という公のシステムを利用したものでも構わない。理不尽な自己関心的理由でなされた犯罪行為には、応報が必要である。罰を与えるという行為が如何に非生産的なものであろうと、無理が通って道理が引っ込んだままで良いわけはない。それが公共性というものだ。
だから私は死刑は必要だと考える。死刑反対が合理性の観点から唱えられる、というその合理性は十分理解できるが、抑止力としてのみでなく、因果応報、公共性の維持という意味において、死刑は存在するべき、と考える。


合理的な方が良いのは分かっている。分かっていても人間というのはその通りにはできない。故意に為された、悪しき行為に対して、人は必ず応酬を返そうとする。それは合理性を超えた、公共的な人間の在り方、と私は考える。

山田氏もここで、「訴訟をするべきではないと言っているのではない」と書いているように、山田氏の言いたいことはここで私が言っていることとは少し噛み合わないのはわかる。訴訟をするにしても、それで自分を生かすように訴訟するべきである、という趣旨のことを山田氏はおっしゃっている。
けれども私は「生かす選択」とも言っていられないような、ぎりぎりの人間性が、「仇打ち」ということには存在していると考える。
作品の評価自体には否定的だが伊坂幸太郎氏の「重力ピエロ」もそれを描いている、と思う。