不都合な真実は存在するか


有名なこのマーク、何に見えるか、という問題。
黒地に注目すればコウモリに見えるが、黄地に注目すれば、牙をむき出した口に見える。
じゃあ、この絵は何の絵かということの答えを「真実」とするならば、「真実」は何か。
答えはコウモリでも口でもなく、「コウモリにも口にも見える絵」ということになるのだろう。
このマーク、コウモリを見ているときは口が見えず、口を見ているときにはコウモリが見えない。
つまり、人間の目は、というかその視覚で得た情報は脳において、何らかの恣意性を持って処理される、ということだ。
言い方を変えればこうだ。何らかの恣意的な方向を与えなければ、その情報は認知されない。


アル・ゴアという人が、「不都合な真実」というタイトルで、二酸化炭素による地球の温暖化の問題を取り上げた。
本が売れるためには、その題名のインパクトも重要という観点ではこのネーミングは成功したというべきだろう。
しかしありていに言って、「不都合な真実」というようなものがあるだろうか。先のコウモリのマークと同じく、人間に理解できる事実、真実、とされるものは人間の都合の良いように恣意的に概念化されたものでしかありえないのではないか。これを簡単に言ってしまえば、どんな不都合な真実も結局人間に都合の良い真実でしかあり得ない、ということだ。
少なくともこのゴアという人は、この不都合な真実によって、都合よく売名を果たしたわけである。とすればこの真実はゴア氏にとっては少しも不都合ではなかったことになる。さらに言えば、環境を保護したいという人々だけではなく、石油産業に取って代わり、新たな商売を始めようと考えていた人たちにとっても都合の良い真実であったことは間違いない。
本当に誰にとっても不都合な真実であったなら、誰にも見向きもされず、結局真実とも見做されないだろう。