招待

患者さんに夕食に招待された。立派な食事でとてもおいしかったが、やはり仕事の相手なので心からくつろぐわけには行かない。
私はこれからも付き合いのある患者さんのことであるし、仕事の一部と思って割り切ることはできるけれど、連れて行った妻などは、気疲れするのでこういうことはもうしたくないと言っていた。
患者さんとの付き合いというのは、大事なことだが難しい。
私のやっている仕事というのは、困っている人を助けてあげる、という奉仕的な側面も確かにあるけれど、それでお金をもらっているわけだから、言い方を変えれば、困っている人のおかげで食べさせてもらっている、困っている人を食い物にしている、ことにもなる。
こちらは病気を治すというサービスを提供し、それに相応しい料金を受け取るという商売と割り切れば話は簡単なのだが、人間と人間の付き合いだから、それだけで割り切れる場合は少ない。特に透析、というその患者さんと何十年も付き合うような治療においては、そういう面が増してくる。
以前にも書いたように、私は、白衣というものは患者さんと自分を職業的な関係に保つ防衛壁、と考えている。あまり患者さんと個人的な付き合いになると、困ることが二つある。ひとつは、情が移りすぎると客観的に正しい判断ができなくなるということ、もう一つは、他の同じような病状の患者さんと公平という観点で問題が出るような治療をしてしまうということである。こうした問題が出てくるので、医者は患者さんから個人的に贈り物をもらったり、何か利益を提供してもらうようなことは控えるべきである。けれど、いわゆる賄賂と同じことであるが、何か治療において、特別な計らいをしてもらいたいというような意図ではなく、純粋に今までの治療に対するお礼、ということであれば、その患者さんの気持ちは受け取ってもよいのではないかと考えている。これも本当は診療報酬という形ですでにお礼は頂いているのであり、それ以上もらう必要はないはずだという考え方ももちろんあるとは思う。


それでも田舎では、よくしてもらったので、ぜひお礼がしたい、うちの畑でできたこれを先生に食べてもらいたい、という患者さんがいる。そういう方の含みのない贈り物は受けておくのが、社会整合的である、と現時点の自分は感じるのである。こういう場合、自分は利益を受けたいから受けるのではなく、それがむしろ贈り物をしてくださる方のため、というか、その言い方が適当でないならばやはり社会整合性のために、受けるのである。受けておきながら、心苦しさや多少の後ろめたさもあり、純粋に贈られたものを楽しめない、できれば受けない方が気持ちが楽だろうと思いさえする。それでも受けるのはこの社会整合性のため、地方の人間関係においてはこれがまだ比較的重要なものとして機能しているから、ということになるだろうか。