童話シンデレラ、にまじめに突っ込んでみる。

子供は面白いと思うのだろうし、世の中にシンデレラコンプレックスというような言葉があるからには、世の女性の多くの理想に少なからぬ影響を与えている童話ではあるが、私には童話としてふさわしいような話とは思えない。
シンデレラが幸福をつかんだのは、どんな逆境にあっても前向きに自分の夢を信じ続けたからだ、というような規範構成になっているのだろうけれど、話の本質は、シンデレラが、その義理の姉たちよりも「たまたま」容姿が優れていたから、王子に見初められた、という部分にある。
それは先天的な素質であり、努力や心がけで得られる素質ではなく、男女の配偶に、こうした先天的な要素が、つまりは容姿が関わってくるというのは厳然たる事実であり、それは進化論的には、より健康で子孫繁栄のために有利な遺伝子を、個体遺伝子が選ぶという点で、きわめて合理的な話でもあるけれど、童話として何ら規範や教訓となるようなものではない。
また、王子にしても、経済力、権力など、環境因子として配偶に有利な条件にあることは確かだが、その上に容姿や、性格的な美点がともに備わっているような人物であることは、「たまたま」あり得たにしても、現実的にはそれらが揃っていることはむしろ非常に低い確率と言える。現実的に言うなら、結婚後のシンデレラが、DVで苦しんだり、王室という偏狂的な世界で大変な苦労をする可能性の方が高い、と言えるだろう。
白亜の城、とかきらびやかな舞踏会、そうしたものだけで幸福というものは測れるものではない。
白馬の王子様、という言い方は、女性向けマンガなどでよく出てくる表現ではあるけれど、その使用者がよく自覚しているように、あくまで幻想の世界の住人であり、現実世界に存在する男性との隔たりは大きい。
ディズニーランドの時も思ったが、現実との格差の大きい理想の世界を描くことは、はたして子どもにとって本当に必要なことだろうか。

さらに悪役として登場する、継母や意地悪な義理の姉たち。彼女たちにも、そのように意地悪になるべき何か原因、必然、過去の経緯というものがあるはずだ。フラストレーションのはけ口として、何らかのやっかみや嫉妬によって人に悪意を抱き、いじめたりするような現実は確かにあるけれど、彼女らも一個の人格であり、歴史をもった人間である。生まれつき容姿が美しくはないことは彼女らの責任ではなく、また、彼女らなりに努力していることもあるだろう。単に勧善懲悪で、彼女らが悔しがっている姿を笑うのではなく、彼女らと共存して、仲直りしていく道を模索していくことの方が、童話として描くべきテーマではないだろうか。


さらに重要な点。シンデレラのハッピーエンドには、引き立て役がいる、ということ。勧善懲悪ものなので、善人に幸福が訪れ、悪人に不幸が訪れるのは構成上それでよいとして、善人の幸福が、悪人の不幸で引き立てられる、という仕組みはいただけない、と思う。つまり、善人の幸福がそれ自体としての幸福ではなく、他人を蹴落としたことによる対比によって、相手の不幸さ加減の上に成り立つ幸福であるなら、それは「ネクラ」な幸福にすぎない、ということだ。本来目指されるべき幸福は、他人との比較によってではなく、自分自身が満足か、充足しているかというその点のみに立脚すべきだ。

Wikiによれば、グリム童話原典のシンデレラ(サンドリヨン)には、たとえば、靴を履くテストのとき、二人の姉が自分のかかとやつま先を切り落としてまで靴を履こうとしたこと、けれど血が滲んできてばれた、などという凄惨なエピソードがある。ここまでリアルな話になってくるとまた別の方面からある種の教訓を含味してくるかもしれない。原典のグリム童話には割とこういう凄惨なエピソードが多い。



しかしこうした私のシンデレラに対するツッコミを、そのまま子供に伝えるのが良いことかどうか、それもまた一つ悩むところではある。