命を懸けていることは

ゲームに命を懸けている、などという台詞を見かけるにつけ思うのは、どういう意味で命を懸けると言っているのか、良くわからない、ということだ。
これはゲームについての話ではなく、「命を懸ける」という言葉の意味合いについての話である。
もしかりに「命を賭ける」という言葉通りの意味であったなら、
私には命を賭けているようなことは何もない。強いて言えば、一時的な激情や怒りに突き動かされているときに命を懸けているような危険な状況になることはある。しかしそれで命を落としてしまうのは*1本当に軽率という他ない*2*3
また命をかけるということの意味を変えて、
命を懸けるということが、あくまで命を維持するという意味ならばそれは確かに重要なことである。健康に留意し、食物を摂る。引いては衣食住を維持するために必要な金銭を得る手段を維持する。これについて、私は命を懸けているといえば命を懸けている、と言える。実際、現在の職業と自分の社会的な立場を維持し、自分が一人で食べていけるだけの収入を維持するという点について、私は、当たり前のように達成できているが、そのことの維持を重要とは考えている。
しかし、おそらく一般的な意味で言われている「命を懸ける」というのは、生命の維持のための営みという以上の、何か必死でがんばる、というような意味合いがある。
そういう意味合いでは、私には「命を懸ける」ようなことは何もない。かなり楽しんでオンラインゲームに時間を費やしているけれど、これはそこから楽しみが得られるからやっているだけであって、ゲームで必死に何かに到達しようとしているわけではない。

人生の目標として、敢えて何か上げろと言われたら、「自己実現」ということになるのだろうが、これも、日々の自分の嗜好で、赤が好きか青が好きか、こうした選好を繰り返していく行為の積み重ねが、何らかの自分らしさに到達すればよい、と薄く考えている程度で、必死に何かに到達しようとしているわけではない。その到達するところが、社会や万人の役に立つようなことであるかないかは、私には全く興味がない。いや、できれば、社会の役に立てれば、みんなからも喜ばれるし、自分もうれしいし、望ましいのではあろうけれど、皆の役に立つようにという視点から、到達される自己実現という方向は、方向として間違っていると、私には感じられるので、私は自分の選好を毎日繰り返していくだけだ。

*1:命を落とした後ならこんな評価を自分自身について下すことも不可能なので、あくまで他人事として評価するなら

*2:しかし逆に言うならばそのような激情に突き動かされたままに死ねるというのは、ある意味幸福な最後なのかもしれない

*3:こうして脚注が増えるのは、自分が適切に自分の言いたいことを表現できていないということの証左である