医療崩壊 by 小松秀樹

東京虎ノ門病院泌尿器科部長の小松氏の著作。部長から勧められ、当直中に読んでみた。現在の医療がおかれている困難な状況を的確に指摘し、一方的な医療界保護を訴えるのではなく、国民にとって良い医療が生き残っていくにはどうすればいいのかを真剣に考えた、善意に溢れた著作だと感じた。
現在の日本の医療においては、「立ち去り型サボタージュ」が多発して、小児科領域、産科領域を皮切りにして医療の担い手がいなくなりつつある。低報酬でも、使命感から働いてきた医師たちが、同僚が、理不尽な訴訟という「攻撃」に晒されることで士気を喪失し、退職、転職していくのである。
この本ではそのような「攻撃」がなぜ生じるのか、その結果どういうことがおきて、それを防ぐにはどうしたらいいのか、が説明されている。著者の小松氏は同じ専門科の医師であるが幅広い知見と、意欲的に対策を考えるそのエネルギーに感服する。
特に、日本医師会への働きかけができる開業医ばかりが優遇されるシステムが、勤務医のあまりに劣悪な労働環境を生み、外来診療報酬格差が病院と診療所では2.9倍もあるという指摘は、私の知らなかったことであり、勤務医が病院を辞め、開業していくのは当然のことと、感じられた。
さらに、医療がが崩壊していった結果、どういう形になるのか、ということが、アメリカの市場原理医療と、イギリスの士気低下医療を概説することで述べられ、崩壊しかかっているとはいえ、日本の医療がいかに優れたシステムで、万人が公平にまた簡易に医療にアクセスできているのか、ということを改めて認識した。
これが多くの献身的な医師や看護士の、労働力により支えられてきたことを、もっと国民や行政は知るべきである。
私は、患者、延いては医療を受ける側が、「医療において、安全安心は当然保障されるべきもの」と考えている限り、医療は崩壊せざるを得ないと感じる。本書においても、痴呆老人の徘徊で訴えられる例など挙げられているが、患者や家族は、全く常識では考えられないほどの安全を病院や医療者に対して要求する。
人間が普通に家や屋外で生活していて起こりうるような事故や病気については病院でも防ぎようが無い。例えば、老人が自宅で転倒し、骨折しても誰も罪に問われることは無いが、もし入院している老人が病棟で転倒し、骨折した場合は、病院側が罪に問われ、過失として家族に責められるのである。肺炎や、窒息なども同じことで、当然普通に生活していても弱った老人などでは起こりうる事態である。しかし病院でこれが起こると、なぜ、入院していてそんなことが、、、と家族は怒るのである。感染という事について言えば、病気の人が集まる場所である以上、病院というのはむしろ感染の機会の多い場所である。私が患者であれば、体の弱った状態でこんなところにはなるべく居たくない。MRSAなど、弱った体には恐ろしい細菌をもらうばかりなのが目に見えている。
医療行為はすべてリスクを伴う。手術などはその最たるもので、生体に刃で傷をつけてその内部に切り込むのであるから、体にとって有害な行為であることは間違いない。それでもそれを行うのは、その傷つけることよりも有害な病気が内部にあるから、それを取り除くという目的で行うのである。要はリスクとベネフィットと比べてみて、ベネフィットが大きいから医療行為は成立するのであり、リスクの無い医療行為など存在しない。しかし、患者はまさかそのリスクが自分に生じるとは考えない。生じた場合には、医療者に何か過失があったのではないかと考えるようになる。そして医療者はまさにリスクの確率と同じ確率で、訴えられるのである。
そんな一定の確率で確実に訴えられ、刑事罰に問われる可能性があるような仕事など、誰もしようとは思わない。もちろん、よほどの高給を積まれれば別かもしれないが。こうして、医療者は皆、退職していくのである。
これを立ち去り型サボタージュと著者が呼び、これにより日本の医療は崩壊しつつある、というのが本書の内容である。
そして、日本のシステム構築は戦後、常にアメリカを追随してきたという点を考慮すると、どうしてもアメリカ式の医療崩壊に向かうと予想される。つまり、より高い安全や、より質の高い医療を求めるなら、個人がその費用を支出し、経済的富裕者のみが良い医療を受けられる、という体制である。医療資源が限られているのに、そこにさらに多くを要求する力が働くなら、流れは市場原理に向かうしかない。