リビドー定量説

誰のエッセイだったか忘れたが、「一生に飲める酒の量は決まっている」という話があった。ある人が大酒家で、毎晩浴びるほど酒を飲んでいたが、50歳を超えたかそれくらいで、さっぱり酒を飲まなくなってしまったそうだ。アルコール性肝硬変になったとか、そういう外因はなく、なぜか、大好きだった酒を飲む意欲が湧かなくなってしまったらしい。
その原因として、その人は「一生に飲める酒の量は決まっていたのに、自分は若くしてその量を飲みきってしまった」という風に考えていた。
面白い考え方だと思った。彼は、もし、その定量をあらかじめ知っていたなら、自分はもっとお酒を楽しみたかったから、もっと量を調節して飲んだのに、と後悔もしながら、それでも自分はお酒に関する自分の分相応量をすべて飲みきったのだから、もう酒に未練はない、というさばさばした気分にもなっていたようだった。
人間の欲望にはキリがない、とよく言われるが、敷衍すると、あらゆる欲望に定量があるのかもしれない。食欲にしろ性欲にしろ、いつかは、もういいと思えるところがあるのかもしれない。
キリがあるのなら、それぞれの自分の欲望を大事にしたい、と思う。死ぬまでに自分があと何回食事をするのか。自分が平均寿命まで生きるとして、計算してみると、30000回以上50000回以下、といった感じだ。数万というと多い気もするが、有限な数で、いずれその数は減っていく。限られた回数しか楽しめない食事ならば、精一杯、それぞれの機会を楽しみたいと思う。
それには、一緒に食事を食べる人間が、誰かということや、その人間と良好な関係を保てているかどうかが、非常に大きく作用するし、どの程度食事に金と手間をかけるかということも関係してくるだろう。学生時代のように、ただカロリーさえ得られればいい、というように、食物を摂取するのは、いまからの私にはもったいない。
もちろん、なるべく短時間でカロリーを摂取する必要があった時代には、食事を犠牲にするだけの、ほかの叶えるべき欲望があったというだけのことなのだが。
こんな考え方は年寄りの考え方なのかもしれない。私も自分の体が健康で、自分の食欲や性欲を楽しめる期間が、それほど長くないことを意識し始めたからこそ、このようなことを考えるのだ。それは悲しいことのような気もするが、事実認識なので、有効に生かさなければならない。