竹内久美子

動物行動学者、竹内久美子の著作を読んだ。ネオ・ダーウィニズムというかドーキンスの立場から一元的に物事を捉える考え方は、ある程度の面白さはあっても、所詮は還元主義に過ぎず、そのうち飽きが来る。というかそういう捉え方ができても「それは現実的ではない」。
遺伝子は、変異と淘汰圧により、自己をより効果的に増殖させる方向に、遺伝形質を変容させる。より効果的に増殖したものだけが、生き残っているというのがその実証根拠であると同時に、その理論の結果である。
そのような言説はトートロジーに過ぎない。「私の皮膚は現にこうして緑色である。であるからして私の皮膚は緑色であると言える。」というような。たとえ反駁のしようが無くても、同語反復には理論としての価値はない。ネオ・ダーウィニズムの還元主義はそういう部分がつまらなさの由縁であると思う。もちろん、還元主義によって、それまで得られなかった知見が得られることもあり、その場合は大変有用なのであるが、その知識が実生活に役立つもので無ければ意味がない。
類する言説としてフロイトの「オイディプスコンプレックス」もある。夢分析などもそうで、どうして歯医者で抜歯される夢を見たら、それが父親から去勢される恐怖心の表れということに決めつけられるのかまったく理解できない。必死になって否定することはむしろその因果関係の証拠になるというのが彼らの論法であるから、反論も封じられている。たとえ、そのように解釈できる場合があるにしろ、またユングの言うように神話には人類共通のある類型があるとしても、すべての人の精神構造をある類型に還元してしまうのは、やはり無理のある理論だと思う。
話が逸れた。まあ、ファッションにしろ恋愛にしろ、繁殖戦略の一展開、として物事を捉えることは、笑いを誘う、という意味では面白いかもしれないが、実際のファッションや恋愛はそれ自体が内実を伴い、そこで活動する人々それぞれのドラマを伴う。繁殖戦略ということだけがその内実でないのは明らかである。



自分のキーワードのリンクから、以下のようなHPにたどり着いた。
http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/paradigm-web.htm
そこに書いてあった文章が印象的だったのでここに引用する。
転載に問題があった場合は削除します。

利己的な遺伝子

分子の結合により生命が偶然できる確率は、全宇宙の海から一本の針をさがすよりもありえないことだ。しかし私達はここにいる。しかし、完全ではない。生命の存続は不安定な状態の維持にかかっている。それはたえず、応急修理をほどこし、数限りなく部品を交換することによってやっと旅を続けられる車みたいなものである。

 私達の体の細胞は常に新陳代謝によって交換されていくが、三ヶ月でほぼすべての細胞が入れ替わる。言ってみれば、三ヶ月前の個人とはまったくの別人になってしまっているといっていい。人はこれを一生のうちに一五〇回から二百回も繰り返すのだ。

 理論的には遺伝子は五〇億年以上も存在できるという。DNAに限界があるとすれば、いかなる状況下でも生存できる乗り物を設計できる才能に限界があるときだ。

 この遺伝子を意識のあるものとは考えられない。彼らには私達についての知識も、彼ら相互の知識もない。進化に関与してる自覚もなければ、将来の発展の為に計画を立てたり、夢を見たりすることもない。ただ存在するだけなのだ。

 私達の身も心も彼らが作った。彼らを保存することが、私達の究極目的ともいえる。鶏は次の卵を作る手段にすぎない。サルは木の上で遺伝子を保存する乗り物にすぎない。魚は水の中で、保存するタクシーにすぎない。

 遺伝子は、ある意味で個人の存在を全く認めていない節がある。冗談じゃない。私達は占領されているのか?しかし、この証拠は強力だ、私達は死ぬが、遺伝子は死なない。老いる事すらなく、どんな環境にも合わせ乗り物を設計していく。進化と言う名のもとに古い乗り物は乗り捨てられ腐っていくが、遺伝子そのものは部品を交換してまた新しい乗り物にのって先にいく。

しかし、それでいいのだろう。私達は死ぬかわりに自由な意志を与えられたのだから。昔から人は−永遠の生命を求めた。しかしいつの世でも出される結論は一つだ。「限りある命だから尊い」、そこに愛や優しさも生まれるのだと。

利己的な遺伝子の話から、その決定論に従わない自由意志の話を持ち出すそのポエジーは、この文章の筆者の何らかの立場を表明しているのだろう。それに全面的に賛同するわけでは無いが、ただそのポエジーが微笑ましかった。