realistic fantasie

昨日の日記の「ハウル」の感想のとこに、「ありえなさ」がクドクて共感できない、と書いた。ファンタジーにある程度の「ありえなさ」は必須である。非日常であることで聴衆をどきどきさせることがその使命なのだから。けれどもリアリティーの無いのはだめだ。じゃあ、リアルなファンタジーといえばどんなものかと言われればこれ。
指輪物語」by J.R.R.トールキン
私はこれを小学6年生のときに読んだ。「ホビットの冒険*1から読んだからずいぶんと楽しめた。映画版は最近に上映され、かなりわくわくしながら見た。原作の作りこみに到底及ばないスターウオーズチックなものであったが、原作の作りこみが並大抵のものではないのでこれは仕方ない。娯楽作品としてはここまで原作を追うことができたのは立派だと言わざるを得ない。
とにかく「指輪物語」がリアルなのは、その世界設定、創世記から神話に至るまで、深く深く、莫大な時間をかけて、トールキンというロシアの言語学者文化人類学者が作り上げているからだ。「指輪物語」というのは彼が作り上げた世界と歴史のごくごく一部分のある一冒険者の物語に過ぎない。もちろん、これらの世界は、その一冒険者の物語のために作りこまれたのだけれども、作者は「指輪物語」を超えて、その世界を創造し続けることを楽しんだ。だからこそ、一物語の細部を超えて「シルマリルの物語」などという神話や、膨大な量の「指輪物語:注釈」が作られているのである。「リアル」すなわち「細部」がある、ということである。このことについて、最近やっているゲーム「MOTHER」について書いてある記事があり、共感を覚えたのでここにリンクを張っておく。
http://www.1101.com/MOTHER_diary/2003-07-02.html
ゲームの中に表現されているのは「ひひぇひゃひょ ひょひょひへ ふはく ひゃひぇひぇひゃひんひゃ」、だけなのである。多くの人が何を言っているのかわからない、とだけ感じて、通り過ぎていくはずの部分なのである。だからここは「ひゃほはふ ひゃひゃひゃひゃ」など、適当な言葉の羅列でもよかったはずなのだ。けれどもこれが「入れ歯を 落として うまく しゃべれんのじゃ」を意識しているかどうかでこのゲームのリアリティが変わる。ものを作るとはそういうことだと思う。
指輪物語」の話に戻る。物語の序盤、「旅の仲間」巻の終盤に、旅の一行がモルグの地下で怪物たちに追われる場面がある。ここで登場するバルログというモンスターがまたとても恐ろしい存在として描かれ、その伝説的な有様に、子どもの私は想像を思い切り膨らませ、そのような存在がありうることに驚嘆していた。映画版では私の想像がバルログの容姿へのあまりに大きな期待を作り上げていたため、かなりがっかりした。が、言いたいのはバルログのことではなく、ここでガンダルフは橋の上でバルログと対決し、橋から落ちた、ということである。「ハウル」のところで崩れる橋を渡る話を書いたが、ガンダルフは落ちる。この落ちるということがいかにリアルか。魔法使いであるところのガンダルフは宙に浮くこともできそうなものである。でも、彼はバルログとの対決に疲れ果て、バルログが断末魔で振るった炎の鞭に足を取られてバルログともに奈落のそこに落ちていくのである。彼を頼りに旅を進めていた一行の落胆と絶望、それは本当にリアルなものである。ここで彼が橋から落ちずに「ぎりぎり」助かっていたとしたら、このリアリティーは半減する。彼はその後長い時間を経て、復活し、旅の仲間に合流するのだが、そこにいたるまでの長い経過も原作では逐一説明がなされる。なぜかいきなり復活したのではなく、泥沼のような苦しみの経過を経て、彼は復活するのである。それがあってこそ彼の復活は許される。それがリアリティーというものである。普通死んでしまうような奈落のそこに、恐ろしい怪物バルログとともに落ちていったのだから。
この「指輪物語」には寓意など無い。しいて言えば、フロドが理不尽な経過で恐ろしい運命と責務を与えられ、それに傷つき苦しみながらも立ち向かっていき、ついにはその責務を果たすという物語であり、カミュの「ペスト」と通じるものである。不条理な現実の運命を受け入れ、それを自分のものとして引き受け、立ち向かっていく。そういう話だ。寓意というような教育的、示唆的な意図を持たない、純粋なファンタジーなのである。その観点から言うなら、宮崎ブランドなどは教育番組に過ぎない。本当の創作からは程遠い。いや、「ナウシカ」は違うかな。あれは教育的意図に満ち溢れているとはいえ、世界観とか、背景とかはしっかり作りこまれている。(いま思い出すと、ゴクリ*2が最後まで生かされ、最後に大きな役目を果たすというのは一つの寓意が含まれているな、、、)
フロドは、ビルボの義理の息子である。養子なのだ。血縁も無い、その養父が気まぐれで出かけた冒険で拾ってきた指輪が、実は世界を滅ぼす魔王の指輪であったために、彼の苦難の運命が始まる。指輪は彼が所持したのではなく、指輪が彼を所持した。そう語られる。指輪とは、そういう意思を持ったしろものだ。「一つの指輪はすべてをみつめ、一つの指輪はすべてを統べ、一つの指輪はすべてをつかまえ、暗闇の中につなぎとめる。闇深きモルドールの国に。闇深きモルドールの国に。」
魔王の居城のすぐそばにある「滅びの山」の業火でしか、指輪を滅ぼすことはできない。しかも指輪は持ち主の心をとらえ、指輪への愛着、依存を引き起こす。そうした状態にありながら彼は自分の意志でその指輪をその山まで持ち運び、火口に捨てるという作業を、世界の存続のために成し遂げなければならない。あまりに酷い運命というか到底成し遂げられなさそうな責務、それを果たすために彼は旅の仲間たちと一歩一歩出発する。最後にフロドがサムと一緒に溶岩流の中倒れる瞬間、私はいつも涙する。
またえらく長くなった。まあ、それだけ「指輪物語」が、本当にファンタジーと呼ぶことのできる作品が好きだってことです。ええ。

*1:いまここでぼうけんを変換すると剖検になった。そういう職業に就いているとはいえ、なんかすごくがっかりした

*2:映画版ではゴラム