先生と呼ばれること

先生というのは先に生まれた人という意味らしい。要は人生において経験値が多く、教わるべきことが多いから、敬意を持って先生と呼ぶらしいです。
若干30歳にして、60-70のおじいさんやおばあさんたちに先生と呼ばれる仕事をしてるわけですが、そう呼んでくれと頼んだ覚えはありません。
先生と呼ばれる仕事をしているのだからそう呼ばれるだけの人格、人徳、品性、倫理観、包容力、社会的指導力、を身につけるよう要求されるわけですが、頼んだわけでもないのにそんな呼ばれ方をされて一方的にそんなたいそうなものを期待されても困ってしまう。
特に倫理とか品行方正とか、仕事終わった後の私生活や服装にまで何か指図されるのはほんとうにもう勘弁して欲しい。医者だってゴアトランスのパーティに行くし、オンラインゲームを遊ぶし、合法な間はマジックマッシュルームも食べてたし、髪型だって辮髪にしてみたっていいじゃん。プライベートに関しては、ほっといてくれ、と言いたい。30過ぎてまで倫理とか道徳を人に教わるつもりはない。自分なりに確立されたものを持っている。当然それは揺らぐことはあるものだけど、少なくとも小学校のときのような道徳の授業のように、人に何か言われたからといって変わるものではないし、(小学校の時点ですでに道徳の授業は道徳を学ぶ時間ではなかった)またそんな安易なものであるべきでない。
患者様の人生相談とか、精神的なささえとか、死に行く患者さんとその家族の心のケアとか、そういったことは心療内科とかホスピスとか、そういう専門家でかつそれでお金もらってるような人に頼んで欲しいわけで。
私は、この職業をプロとしてやっていますが、なんについてプロかというと人体における自分の専門領域における西洋科学にもとづく知識と、それを扱うための技術です。お金をもらう価値があるとしたらその知識を常に最新のものに保つ労力と、それを正しく援用するための感性、またなるべく正確で熟達した技術によってなるべくミスがなく、かつ術後の身体機能がなるべく障害されず、かつ疾病をできるだけ完全に治すというその技術に対して、であると思う。
要はね、技術屋なんですよ。人体に関する修理屋であり、エンジニアであるわけです。理想的には、もうオートメーション工場みたいに腫大した前立腺肥大の患者さんが手術台に乗って麻酔もかかった状態で運ばれてきて、片っ端からTURP(経尿道前立腺切除)していくマシーンのように働きたいわけです。もちろん、「おしっこがすーっと出るようになりました!」と喜んでいる患者さんの顔は見たいけど、べつにそんなに感謝されなくても、合併症もなく、尿流測定と残尿測定で良好な改善を認めたら私は満足です。
まあそれは極端な話で、まさに手術だけやってればいいというわけにいかないのは分かってます。サービス業であることも分かってはいるけれど、接客業としてお金をもらってるのではなく、その専門性、技術でお金をもらいたいんです。そっちに特化したほうがより安定して確実な手術や治療が行われると思うんですが。リップサービスとか接遇とかそんなことが上達してたらそらそれに越したことはないけど、それで技術や知識がおろそかになってるとしたら、私自身はそんな医者にはかかりたくはないね。
シャントの手術だったら、あいつに任せたらなんとかしてくれる、とか削った後の前立腺尿道を見たら、きれいに被膜面が露出し、かつ完全に止血されてて、還流液をとめても血尿はほとんどないとか、それを見て、「いい仕事しましたね」と自分に言えるような、そんな毎日を送ることができたら、仕事をしてる間も、幸せだろうなあ、と思います。
まあ実際はそうもいかないわけで、雑用とか人間関係とかそんなことに神経をすり減らし、「これもお金もらってるんだから」と自分をなだめてやって行くわけですね。

まあ、仕事しながら長年思ってきたことです。たかだか5年か6年のことですけどね。