愛について

このブログが筋トレノートになりつつある。
原因は明らかでFacebookをやり始めたからだ。実際に知人である、昔の同級生などから、自分の近況報告について反応がある、というFacebookの形態のほうが、記事を書こうというモチベーションに強く訴えかける。

しかし、ここでは、匿名であるからこそ考え、自分の思いを綴っていける、という場所。
こちらも細々とでもいいから続けていきたいと考えている。

社会心理学という分野からの引用。愛は6つに分類されるらしい。

エロス(情熱的な恋愛)……相手に理想的な特性・特質を見出して惚れ込む情熱的でロマンティックな恋愛の形態で、多くの恋愛はこのエロスに該当します。エロスは精神分析の文脈で考えると、“リビドー(性的衝動)”が文学的で耽美的な異性愛の方向へと転化されたものであり、相手と性的関係を持ちたいという性愛欲求の形態をとって顕在化してきます。エロスは、恋人との性的快楽の共有を独占したいという排他性の特徴を持ちます。二人だけの恍惚とした幻想的な世界観を持ち、ロマンティックな感情表現が多く行われることもエロス的恋愛の特徴と言えるでしょう。

ストロゲー(友愛的な恋愛)……親密で温かな友人関係が穏やかにゆっくりと発展して、恋愛関係となったものです。あるいは、友情的な雰囲気が性愛的な雰囲気よりも強い恋愛関係であり、親しみやすさや安心感が前面に出ている事が特徴的な関係です。燃え盛るような官能的な愛情表現は余り見られず、陶酔的な激しい性的興奮よりも、一緒に居てゆったりと安心できる信頼感や親近感によって支えられる恋愛関係です。長い年月を共にする仲の良い夫婦などは、『激しく燃えるエロス』から『穏やかに継続するストロゲー』へと自然に移行していきます。キリスト教的な恋愛観では、ストロゲーは親子関係の愛情とされ、フィリアが友愛関係とされることもあります。フィリアは、“philosophy(哲学=知を愛する学問)”のフィロ(philo)が“愛する”という意味を持つように、本来、理想的な対象・事物を愛するといった意味があります。

ルーダス(遊戯的な恋愛)……刹那的な快楽・興奮や一時的な刺激・陶酔などを得ることを目的としたゲーム感覚の遊戯的な恋愛がルーダスです。相手と継続的に親密な関係を維持しようという意図がない為に、ルーダスの恋愛では相手に対する独占欲求や執着心が殆ど見られず、不特定多数の相手と同時に恋愛関係を持つ事もあります。自分自身が、より多くの快楽や喜びをどれだけ相手から引き出せるのかという利己的なゲーム的恋愛ですので、相手の幸福や楽しみの為に自分が何かを犠牲にする事がない事も特徴的な事でしょう。相手に依存したり執着しない代わりに、相手からの依存や執着も受け付けず、一定の距離感を保って割り切った刺激的関係を持とうとするのがルーダスの恋愛です。

マニア(狂信的な恋愛)……エロスの相互的な独占欲求の程度を逸脱した熱狂的で支配的な恋愛関係がマニアです。“mania”は、精神障害の分類で、躁うつ病双極性障害)の『躁状態』を意味する言葉でもあり、異常に気分が高揚してハイになり、精神活動が活発になり過ぎている状態を意味します。恋愛関係のマニアは、狂信的に相手に惚れ込んでしまい、現実検討能力が低下して、相手の気持ちや考えを無視してでも自分の思い通りに相手を独占的に愛そうとする激烈な性衝動であり恋愛欲求と言えるでしょう。自分自身で、相手に対する過度に高ぶった恋愛感情を制御する事が出来ないので、強烈な嫉妬心に苦悩したり、絶望的な悲哀や極度の落胆に襲われたりします。そして、相手から明確に拒絶された場合には、ストーカー行為へと進展してしまったり、相手を逆恨みして攻撃したりする事もあります。行き過ぎた過度のマニアが恒常的に見られる場合には、精神病理学の病態水準で言う『境界性人格障害(ボーダーライン)』を疑う必要もあるかもしれません。

プラグマ(実利的な恋愛)……プラグマの恋愛とは、物事の価値を有用性や効率性で判断する“プラグマティズム(実利主義)”に根ざした恋愛関係です。プラグマでは、相手と交際し関係を持つ事によって『利益や快楽』が得られるか否かという損得勘定・功利判断があって、恋愛の相手を選択する事となります。一般的に功利主義的判断を前提とするプラグマは、精神的な結びつきを重視する恋愛関係よりも物理的な生活を重視する結婚関係において多く見られます。プラグマでは、恋愛・結婚の対象を選択する場合に、相手自身に備わる身体的魅力・精神的魅力が軽視され、社会的要因として有利に働く経済力・将来性・社会的地位や名誉が重視される傾向があります。

アガペー(博愛主義に根ざす利他的な恋愛)……アガペーの原義は、キリスト教世界観における“神の無償の愛”であり、“人間の利己的な愛”であるエロスと対照的で対立的な愛の形態です。エロスが、理想的なイデアとしての異性を恋慕して、『自分の好きな相手を選択する自己充足的な愛』であるとすると、アガペーは、愛情や優しさを求める全ての人間へと捧げられる無条件の愛であり、『自分の選好(好き嫌い)や功利(損得)を考慮に入れず、相手を主観的理由によって選択しない他者充足的な愛』です。原義が、旧約聖書に記述される神の愛であり、新約聖書で示されるイエス・キリストの自己犠牲的な博愛なのですから、普通に考えると、恋愛によって快楽や幸福を得たいと願う人間には実現不可能な理想的な愛の形です。また、厳密にアガペーの『無償の無条件の愛・無差別の自己犠牲的な愛』の定義を当て嵌めると、特定の相手を好きになる人間の恋愛関係は全てアガペーには該当しないということになります。そこで、少し制限を緩めて『自分中心ではない利他的な恋愛関係・自己犠牲を厭わない献身的で純粋な恋愛関係』を指示してアガペーという事もあります。

これら6つのうち、エロス=恋愛感情 ストロゲー>フィリア=家族愛 アガペー=博愛の3つが愛情の代表的なものとして言及されることが多い。
しかし、分類はどうあれ、自分がこの世界で生きていて、何かに、それは自己だろうと他者だろうと、路傍の花だろうと、テレビドラマであろうと、何かに惹きつけられ、肯定的に接することができ、そのものに近づきたい、と感じるものがあれば、それが愛、ということになるだろうと考えている。あまりに漠然としており、それに言及するような大きな文脈で話すことがないので、愛という言葉は使われなくなっているのだろう。