畑を作るということ

長くなったし、まとまらない自分の考えを書きなぐったものなので畳んでおきます。
晴耕雨読と昔の人は言ったけれど、畑を作るという作業がとても充実した作業だと感じたのでこれについて少し考えてみたい。
まずは何の用途にも使われていない、雑草に覆われた地肌がある。雑草が生えていることも雑草にとってみれば、また地球規模の観点からすれば十分意味のあることなのだけれど、とりあえずその周囲に住む人間にとってはあまり有用ではない土地だ。
これを耕して畑にすることで、作物を育て、食料とすることができる。畑を作るというのはそのように人間にとって有用な土地に変える、という作業だ。
堅い土をまず掘るために、つるはしを使う。これを掘り起こして穴や溝をまず掘る。そうして出てきた土の塊を鍬で細かくして、スコップや鍬で長方形になるように盛り上げ、畝を立てる。
この作業を延々と繰り返すわけだが、土の中には大きな石や、昔立っていた建物の瓦などが埋まっている。そうした障害物を取り除きながら掘り進めていく。長年踏み固められた土は粘土の塊のように堅い塊となるのでそれを鍬や鋤で細かい土くれに砕いていく。不毛な土地が、自分の力で、豊かな、植物が根を伸ばし、花や実をつけられる畑に変わっていく。この過程がとても喜ばしく楽しい。
何が楽しさに繋がっているのか。
まず、体を動かす、ということ自体の喜びがあると思う。人間は太古から、自然環境と取り組み、生きていくために体を動かしてきた。食べるて行くために体を動かすという、原始的な、きわめて合目的的な運動が、人間に生きている、という確信を与える。
産業革命を経て、すでにインターネットによる通信、仮想世界が世の趨勢となり、文明は分業を進め、個々人の役割分担はあまりに細分化、スケジュール化され、本当に自分の意思で働いているのか、何のために働いているのかわかりにくくなってしまった現代、食べていくために体を動かす、という直接的な運動は、本来人間が生物として持っていたはずの実存的な強度を思い起こさせる。

人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ*1

体を動かしていると自然に暑くなり、額に汗が浮かび、眼鏡に垂れ、視界が曇る。眼鏡をはずし、シャツの裾で汗をぬぐい、来ていた上着を脱いで、下着のシャツ一枚で作業を続ける。手は疲れ、腰は痛むが、とても充実した、生きている実感の強い時間を過ごす。そして、私の場合は主に朝食になるのだが、そうした農作業後の食事はまたどれも格別うまい。
土に触れる喜び。
幼少時、粘土で遊んでいた。自分と異なる、自分の外にある世界の代表ともいえる土。小さい頃は土の上に落書きをしたり、転んだり、もっと土に触れ合う機会があった。大人になり、転ばなくなり、土を掴むような機会は無くなってしまっていた。ところがこの土というものが実に豊かな存在だ。砂に近いさらさらとしたものから、粘土質で互いにくっついて強固な塊になっていたり、耕して水を掛けておくと空気に触れ合う部分が大きいのかすごい勢いで蒸散が起こり、朝の冷気の中に湯気が上がる。高い畝を作っていても、雨が降ったりすると、内部の構造が持たないのか、ひび割れて、崩れる部分が出てくる。
この土の中に実に様々な成分があり、もちろんそれだけでは野菜を育てるのに足りないので、窒素リン酸カリ、という液体肥料を散布するのであるが、これらの肥料を土はしっかりと保持し、水分とともに植物の根に供給する。土にはさらに亜鉛や鉄などの金属も含まれこれらも植物を栄養する。そしてひいてはそれらの栄養素は我々人間に届けられるのである。
こうした豊かな土とふれあい、粘土細工のように係り合い、相手の性質と話し合うように自分の目的の畑の形状を形作る、または、失敗し、どうすればより水持ちと水はけのよい畑が作れるか、試行錯誤を繰り返す、この過程がとても楽しいのである。
さらに、将来に繋がる気持ちがある。
作物が実り、家族とそれを収穫し、新鮮な野菜や果物を家族と楽しみながら食べる、というささやかなれど、理想の未来を思い描きながら体を動かす。世界人類への貢献には程遠い。けれども、自分の身近な家族、一番喜ばせたい自分の子供たちの笑顔に繋がるかもしれない種を、植え、育てるための場所づくりだ。大義や正義は無いけれど、なんと純粋に夢に向かう作業であろうか。そこには他人からの評価を気にするどんな虚栄心もない、ただ、家族の喜びを求める活動だ。
実際には種が芽を出さないかもしれないし、思ったような美味しい野菜はできないかもしれない、さらには将来には家族が離散したり家が燃えたり、家族が死んでしまったり、どんな不幸があるかはわからない。けれども一歩一歩、埋まっている大きな石は取り除き、土を細かく砕き、雨で崩れた畝は修繕し、生えてくる雑草を摘み、種が芽吹くように寒冷紗をかけてやり、1週間に1回の貴重な水やり、液体肥料散布の機会を大切にし、一歩一歩、幸福な未来のために進んでいく。この過程が、結果のいかんにかかわらず、既に幸福なのである。




職のない若者、ワーキングプア、都会の高い人口密度の中で一人ひとりの人間の価値は下落し、周りの人たちとの関係を断ち、自分の存在意義を見いだせずさ迷う人々のことを考えると、土地の余っている地方に引っ越して、とりあえず自分の食いぶちだけでも何とか生み出せるように農業に取り組めばどうか、と提案したくなる。
もちろん、軌道に乗るまでは大変だろうし、完全自給自足などという状態は、季節の問題もあり、ほとんど不可能だとは思う。そこは過疎対策の市町村の補助なり、そのほかの副業なり交えていかないといけない。結局は人間同士、コミュニケーションなしではやっていけないけれど、最低限、自分の食いぶちの一部を自分で稼ぐには、農業ほど直接的な方法はない。まずはそこからスタートして、自分が生きていくという実感を手に入れてから、それから他人との関係を築く方向に目を向ければよいのではないかと思う。
それが、人間の生きていく力を取り戻す、順序、なのではないだろうか。



今日もよい天気だ。今週末は市内に出かけないといけないが、その前にトウモロコシの植え付けがある。予定を過ぎても芽を出さない藍とジャガイモ、エンドウはそろそろ芽を出すだろうか。

*1:「子どものための哲学対話」63P