秒速5センチメートル

秒速5センチメートル 通常版 [DVD]

秒速5センチメートル 通常版 [DVD]

名作アニメ、との評判の高い同作品を鑑賞した。
耳をすませば」や、奥華子に通じる、青春時代のやるせない気持ちをかなり昇華して、抽出して、視聴者に届けた、という点では、良い仕事をした作品ということになるだろう。
たとえ、そうした気持ちを極限まで昇華したかったにしても、ここまで現実的にあり得ない展開だと、感情移入がしにくい、その結果、伝わる感動も薄い、という結果になってしまう。以下、ネタばれになるので畳みます。
第1話の「桜花章」は、まあ良い。中学1年で転校も多いならそういうこともあるだろう。でも、自分が一生懸命に書いた手紙を、ポケットに突っ込んだりはしないだろう。
第2話に入り、それだけ気持ちを伝えあった間柄なら、メールもしないし連絡も取らなくなる、というのがおかしい。もし、連絡を取らなくなるなら、そうなるまでのお互いに幻滅する過程、すれ違いの過程が描かれるべき。そしてそのような過程を経れば、タカキのアリカに対する想いはそこまで純化され、思いつめたものではなくなっているはず。とすればカナエが悲しい思いをせずに済んだ展開も或いはあったのではないか。また、タカキがカナエの気持ちに気づいてない、というのもあり得ない。だとすれば、タカキの思わせぶりな態度は、人の気持を弄ぶ、残酷な態度と言わざるを得ず、タカキの人物としての魅力は減衰する。
第3話、東京の大学に行くほど、アリカとのことにこだわっているなら、どうして連絡を取らず、町ですれ違うような偶然の出会いのみに期待をかけるのか、しかも他の女性と交際したり。
要はタカキの想い、というものは宇宙に向かうロケットと同じく、具体的な人物を想定した好意ではなく、単に何か遠くのものに憧れるという自分の態度に憧れていた、という自己陶酔的なものだったのだろう。そのことに、タカキはラストシーンの踏切で気づき、苦悩から解放された、と。
そういう解釈になるだろうか。
端的にいえば、タカキは、「稲中」の「ゲース」という話で描かれている、自分に正直になれない、もしくは自分が何を望んでいるのかに気づくことのできない、歪んだ人々のうちの一人だった、ということになるだろう。自分も前野達と同じく、本当に生きているなら、「もっとこう、汗水たらさんのか!」と突っ込みたい気持ちでいっぱいだ。まあ、本当には生きていない人物で、こうした背後世界志向的な透明感、および、青春時代のやるせない気持ちを抽出するために、創造された架空の人物に、突っ込みを入れたくなるくらいには、十分に感情移入して作品を鑑賞できた、ということになるだろうか。