針穴で会話

私の毎朝の仕事は、患者の血管に針を刺すことから始まる。
25人程度の透析患者に、一人2本ずつ、合計50回以上人の体に金属の針を刺し込んでいる。
腎不全の方の体にたまった尿毒素と余剰水分を除去するには、こうした血液にアクセスするための入口が必要なので、これは毎日行われる。
一年で、365日のうち、日曜日を除くから365x6/7=312 50x312=15600回、さらに夜間の穿刺がこれの4分の1程度だから4000回くらいとすると約2万回。これを30年、父はやってきたので、約60万回の穿刺をこれまでやってきたことになる。
実際は夜間の穿刺は技師が行っているので厳密には50万回行かない程度かもしれないが、こうして数限りない穿刺という医療行為を父はここで繰り返してきた。
そしてこれからは私がその大部分を行うことになり、現にそうして毎日働いている。

隔週の土曜日だけ、父に仕事を代わってもらっている。そうすることで、一週おきに私は2連休をもらえることになる。父が元気で可能なうちに、少しでも長く家族で遊べる時間を、そうして作らせてもらっている。
だから、隔週で、土曜日の透析の方は、父が穿刺している。そしてその方たちの次の火曜の穿刺は私がすることになるのだが。
同じ箇所ばかり穿刺していると、血管瘤を生じ、また血管壁が薄くなり、破裂の危険も出てくるので、少しずつ穿刺箇所をずらすのが通常だ。ただ、いつもと違うところを穿刺すると、皮膚の神経がまだ生きているので、穿刺時の痛みが強い。また、確実に血流がとれるかどうかという不安がある。そういうことを考えながら、穿刺箇所をずらしていくのだが。
隔週ごとの火曜の穿刺で、前回の穿刺の針穴がわかる。古い血餅がこびりついているので、父が、この前の土曜の穿刺で、どこを刺したのかがわかるのだ。そうして前回の針穴を見るたびに、なるほど、そこに刺すのか、と感心することがある。自分と違う人間なのだから、違うことを考えて当然なのだが、どの部位に刺しているかというそのことで、父の長年の経験や発想、思想が伝わってくる気がする。


こうした、言葉を介さずに伝えられる情報には、多分に思い込みや勘違いが混じりやすいが、それでも言葉を介した場合にはない、強い説得力がある。師から弟子に伝えられる伝統工芸というようなものはこうした形で伝えられるのだろう。
それは何にも代え難い財産というべき情報だろう。

血餅の乾いた私なら思いつかない位置の針穴をいくつも見ながら、そんなことを考えた。