MMOとはなんなのか。

西田幾多郎といえば、「絶対矛盾の自己同一」という言葉が有名だが、この西田氏が言い出した有名なテーマとして、人間の生きる目標、人生最終目標として漠然と掲げられることの多い「自己実現」という話がある。
簡単に言えば、本来人間は何らかの本性もしくは使命ともいうべきものをもっていて、それが自然と発露してくるように自己研鑽を積むことが人生のあるべき姿である、というようなテーマである。
エンデの「はてしない物語」の中に、入り口と二つの出口がついた部屋ばかりで構成された迷路に主人公が迷い込むエピソードがあるが、主人公はそこで少しずつ自分の気に入った方の選択を重ねていくことにより、最終的に自分のたどり着くべき場所にたどり着く、という結果を得る。自分は何になりたいのか、などという大上段に構えた選択はできなくても、日々の選好を積み重ねていくことで、自己は実現されうる、そういう希望を示したエピソードである。
西田は、「入神の域」の話をする。ピアノの演奏者が、はじめは楽譜どおりに弾くために練習を重ねるが、暗譜し、さらに修練を重ねることで、ほとんど何も意識せずに、「曲に演奏させられる」ように曲を弾けるようになってくる。コンサートなどで「神がかった」演奏などといわれる演奏では、大体演奏者は、「こう弾こう」などと意識していないと思われる。ただ、ひたすら繰り返された練習の結果、そのピアノ奏者には「神」が下りてきて、神の演奏となるのである。そこで言う「神」とは赤の他人ではなく、その演奏者の本来実現すべき姿であり、そうした本来の姿の発露にこそ、万人に価値を認められる、精神的な生産物としての価値がある*1。そうした「入神の域」こそが自己実現の為された状態である、と西田は言う。意識してこうなりたいとか、こうしたいなどと思っているようではまだまだ自己実現の状態には程遠いのである。

さて表題の件だが、MMOとはなんなのか。
自己顕示欲充足システムである。
http://d.hatena.ne.jp/Chaborin/20061024
http://d.hatena.ne.jp/Dryad/20061023
コンシューマーゲーム、つまりは「ドラクエ」だが、これは自己満足充足システムである。
どちらも得られる快の源泉であるところの本体は電子計算機内のデータに過ぎない。MMOでもドラクエでも、プレイしているゲーマーが多くの時間を費やすことで生産しているものは電子計算機内の数値データに過ぎないのである。
このゲーム世界での自己実現は如何にして可能か。
コンシューマーゲームはまさしく閉じられた仮想の世界の中で、自分がヒーローとなり主人公となり、仮想の世界に大いに働きかけ、仮想の自己実現を数値上果たすという世界である。そこにあるのは自己満足しかなく、そしてそれはゲームを購入した段階で既に目的として了解されているのである。ドラクエを購入する人ははじめから自己満足を目的として購入している。そこには一切の卑下や劣等感は無い。
ところがMMOはどうか。例えばFFXIのなかで以下にして人々が満足を、快を手に入れるかといえば、それは、他人の所持していないレアアイテムを手に入れてそれを見せ付けることである。レアアイテムが手に入らなければ、例えば、一風変わった性格や人格、もしくは愛されるべき人格を演じて見せることで他人に評価される、目立つ、認められる、受け入れられる、などの現象が生じることで、FFXI内のプレーヤーは快を得ている。つまり、差異を他人に示し、それが認められることがMMOの快である。つまりそれは自己顕示欲なのである。
自己顕示欲が無ければMMOの中に、他のプレーヤーが存在している必要は無い。つまりMMOである必要は無い。
人々の自己顕示欲に支えられたMMOの世界は、はじめに述べた、自己実現の立場からすれば、甚だ本来の目的から引き離された世界である。「他人にどう見えるか」「どうすれば目立てるか」ばかり考えて目指される行為は、到底自己実現からは程遠い行為なのである。これに比べれば、まだコンシューマーゲームの純粋なる自己満足、本来目標であり手段であり結果である完結した自己満足のほうが、自己実現の状態に近いといえる。

リアルの世界において、望ましいとされる展開は、
自分にあった職業での入神の域に至るまでの洗練>その達成が万人に評価される*2>快
という構図であろうが、それは容易に達成できるものではないので、
仮想世界での安易な数値上の差異の達成>誰か他人にそれを認めてもらいたい>MMO内での快を求める
という構図になる。
こうしてMMOは、リアルでの自己実現からの逃避の受け皿として成立してきた。*3


このMMOの世界の中で敢えて自己実現を求めるという構図は可能であろうか。

*1:この部分は、西田氏が言っているわけではなく、私自身の追加解釈である。このような他人からの評価を自己実現の副次産物として付け加えざるを得ない部分に私のネクラな部分が現れる。「ネクラ」についてはここ参照→http://d.hatena.ne.jp/kabalah/20060518

*2:ここも。ネクラな私が勝手に付け加えただけで、本来の自己実現に伴う快は、他人から評価されるか否かに関係なく存在するものであるはずである。

*3:要は、MMOとは「ネクラhttp://d.hatena.ne.jp/kabalah/20060518」な人々の集まりにより成立している世界なのだ。