余命の告知

仕事なので人に頻繁に癌の告知をしている。
しかし、余命の告知をしたことは、対象が高齢者が多かったこともあり、あまりなかった。
しかし、自立心が強く、自分の人生を人にまる投げしたりするのではなく、自分で構築したいと考える傾向が強い、80台の男性が、自分の今後について、病状説明を求めるので、ついに私はそれを行わざるを得なかった。
癌の告知は、治療法があり、それで何らかの、具体的には余命もしくはQOLの明らかな改善、もしくは保守が見込める場合に行う。
侵襲のある治療やリスクを受けてでも、その治療によって得られるものが大きいので、その侵襲やリスクを甘んじて受けていただくために、癌の告知は必要となる。
しかし、余命の告知はどうか。
余命の告知をするような場面は、医学がそれ以上その病態を改善することができず、病気が着実に進行して命を縮めるという、そういう場合にしか生じ得ない。打つ手が無い、お手上げ状態である、ということを患者に告白するに等しい行為なのである。
それをすることのメリットはどこにあるのか。患者の希望を打ち砕き、死の恐怖に陥れる、悪しき行為ではないのか。
そういう面があるから、私はいままでほとんど余命の告知をすることはなかった。余命を告知しなければいけないような事態となる前に、鎮痛剤のモルヒネで、病識がなくなるくらいぐだぐだになっていただき、モルヒネの多幸感を味わいながら、最後の時間を過ごしていただく。それが、その患者さんのためになる、と思ってやってきた。
しかし、自分の人生を自分で引き受けて、自分の最後の時間を自分の思うように過ごしたい、という方もいるだろう。というか理想的には多くの人がそうだと信じたい。それは生への執着とのジレンマの中で揺れる心ではあろうが、キューブラロスの死の受容4段階を経て後に、誰もがたどり着いて欲しい心境だと、個人的には思っている。
そして、患者本人から希望があったので、一昨日その余命の告知を行ったのだが。
その方は、3年前に膀胱癌で膀胱全摘の手術を受け、回腸導管による尿路変更を行った。去年の夏から骨盤内リンパ節に再発し、放射線治療など行ったが、再発後の癌の進行は早く、骨盤内が腫瘍に置き換わろうとする勢いである。高齢であり、腎機能も悪いため、抗癌剤による治療も適応外となり、もう打つ手が無い。余命は数ヶ月、どうがんばっても1年は厳しい状況である。
この方は、尿路変更後のストマ管理を自分で的確に行ない、ストマを持ちながらも術後にテニスの大会に出たり、登山をしたりするまでに元気に回復された方だった。定期フォローアップに真っ黒に日焼けして現れて、「おかげで元気にさせていただいております」と言われたときには主治医として嬉しかったし、手術してよかった、と思った。
だからこそ、こうして再発の転機を取って、私は非常に残念だし、やはり癌には勝てなかったか、手術後の病理結果がpT3だったので、高齢でもadjubantをやっておくべきだったか、と深く悔やむ部分もある。
しかし、余命告知をしたとき、患者さんはこう言った。
病気が病気だけに、手術のときから覚悟をしていました。手術をしていただき、3年も生き延びることができて満足です。せめて残りの数ヶ月を自分の納得がいくように過ごして生きたいと思います。きちんと余命を教えてくださり、ありがとうございました、と。
自分が患者さんの立場でもこう言えるだろうか。どんな不幸な運命であっても自分の人生として自分ひとりで引き受ける。ここまで自立した、「大人」の人間は実際はなかなかいない。ともに癌を治すために2人3脚で歩いてきたこの患者さんの言葉に、敬意を抱いたし、また同時に哀れでもあり、涙がこぼれそうになった。
せめてこの患者さんの残りの数ヶ月が、質の高いものとなるように、自分のできることはしようと思う。具体的には疼痛管理しかできないわけだが、必要ならホスピスなどの専門施設の紹介も。