このブログについて。

医療問題や、時事的な話題については、門外漢である立場から、事情も知らずに勘違いの批判となってしまうことを嫌うために、このブログでは扱っていなかった。本当に自分が関わっている実際の仕事の内容、私的な経験の記述のみを心がけてきた。
しかし、私的な事柄については、プライバシーの問題、匿名性を守る観点、また実際に私を知る人たちもこのブログを私の書いたものとして閲覧可能であることより、すべてを明らかに記述することはできない。
つまり、このブログで取り扱う話題は、私小説とするにはあまりに制限がかかっており、時事性のある話題への批判も取り扱えず、いつまでも中途半端な当たり障りの無い内容が書き続けられるという形になってしまう。
ブログとして、私以外の人たちに開かれた記述の場である以上は、共通性のある話題、つまり時事的な話題への意見を述べ、それへの共感、もしくは反感を表明してもらうことにより、自分の視点の客観性を養うという方向に進むか、完全に匿名性の元に私的な経験をよりあけすけにつづり、あらゆる個人の私的体験への共通理解により、共感もしくは反感を得るという方向に進む、いずれかの形でなければ、ブログで他者と繋がるという当初の目的は達成し得ないであろう。
さて、どうしようか。私的経験を綴る方向に進むなら、このブログを終了し、まったく匿名でまた別の場所にブログを開設するという方向になるだろう。しかしそれは甚だめんどくさいので、無責任に、事情を知らない立場から、ある問題について意見してしまう危惧を常に抱きながら、時事性のある話題についての、自分の立場や意見を表明する形にするか。
たとえば、インフルエンザの治療薬投与者に異常行動が認められたというようなニュースをどう思うか。はっきりいって、あまり関心が無い。自分がインフルエンザにかかれば、十分な水分の摂取と睡眠のみで治すであろうし、子供が罹患すれば、副作用等を十分検討の上に、投薬を考えるであろうが、異常行動がタミフルで生じるとはどうも考えにくいようである。タミフルの備蓄量を守るための、デマゴーグである、というようなうわさもどうでも良い。それに影響されるかどうかは個人の自由であるし、私自身はそのようなものには影響されない。
書いていて思うことは、結局私は、社会に政治的な形で関わる意欲が、少しも無い、ということである。時事性のある話題への意見というものは、結局その意欲の問題となる。自分の意見により、社会が、大衆が、政治が、なんらかの良い方向に向かって行き、その結果自分の生活も改善されるというような、自分の生活と社会との連続性を意識し、それを改善しよう、もしくは改善できると信じる意識が無ければ、時事性のある話題に意見しようと言う気がそもそもおこらないのである。言い換えれば、自分の個人的な生活が、社会や政治から分断され、乖離しているという意識。
たとえば、現在、庶務課の方から、年末調整で、配偶者の年内の収入を調べてください、などといわれるのだが、なんのためにそんなことをしないといけないのかさっぱりわからない。10万20万税金を取られる額が変わるのか、どうなのか分からないのだが、そんな貰ってみないといくらになるか分からない収入について、あらかじめ申告しろといわれても困る。
税金を取りすぎたなら、あとで返してくれる仕組みもあるなら、そのときでまとめて処理して欲しい。自分の納得のいかない事柄について、期限を設けてあれこれ指図されるのは不愉快である。しかし恐らくこのような認識自体、政治とか税金とか保険とか、実際に自分の生活に関わっているはずの社会の仕組みから、自分の意識が乖離して、まるで自分とまったく関係ない世界のできことのように感じられるという、その意識のあり方に問題があるのであろう。それは大学生の頃からの「学生気分」の延長とでも言うべきものかもしれない。
この大阪に今後長く住むわけでないので、「かりそめの客」という立場は変わらないが、広島に帰れば、子供の教育、健康保険、収入から将来の経済的自立の維持にわたり、ある程度地域や社会と繋がった生活を営まねばならない。それに先立って、ブログでも少しずつでも自分の興味がある時事的な話題についての意見を述べていくように心がけていこうと思う。