部落差別

部落差別、というものがあり、私が育った田舎では、けっこう根強く残っている。普段はみんなその話題には触れないが、結婚、とかいうことになると、部落出身と言うことが問題となり、結婚したい二人の大きな障害となることがある。
部落出身者とは、江戸時代に作られた身分制度における、エタ・非人と呼ばれた階級の人々で、それらの人々が川や地形で区別された区画に住んだことから、その区画を部落と呼び、そこの出身者が差別されると言う問題である。代々、精肉業や廃棄物処理、ゴミ収集などの職業に従事している人が多く、そのような職業の人に対しては暗に部落との認識が根付いている。
子どものころから、不合理で意味のない差別がこれほどまで自分の身の回りに存在することに驚いていたが、私の出身の地では、小学校の校長がこの部落差別の被差別側団体のつるし上げに合い、自殺する、という事件まであった。
都会では、誰がどこの出身かなどということは分からない。あまり意識されることの無い問題である。しかし田舎には、結婚の前に、その相手の系図を寺の過去帳と言うものにまで調べに行って、報告してくれる機関まである。
結婚のときに、相手が部落出身であると問題になるのは、自分の子どもが将来、部落出身として結婚のときに苦労することになることが予想されるからだ。こうしてこの差別は延々と続いていくのである。
また被差別団体に代表されるように、部落出身者の一部には被害意識が強く、自分が部落であることを逆手にとって人々を脅かすような仕事をしている人もいる。そういう人が暴力団などと関係を持ち、さらに人々から孤立し、差別を強めていくような所業を繰り返していく。
一度、被害妄想的な思考回路に入った人をそこから解放することはむずかしい。自分の権利とか、自分への周囲の目とかばかりを気にして、神経質になってしまった人はなかなかその周囲への敵対心から解放されない。
この問題を考えるとき、私はいつも出口の無い思いにとらわれ、みんな都会に出て行けばいいのに、と思う。けれども、私はいずれ出身地に戻り、そこで生活する。私自身はこの問題とどう向き合うか。すでに構成された差別の構図の中でどう振舞うのか。
日常生活においては、そのような差別が実際にあるのだから、それを無視するのではなく、解消する方向で動きたいと思う。具体的には、自分と関係のある相手をその出身で判断するのではなく、その人格、実績で判断することだ。もちろん差別により被害妄想的な人格に陥っている人物はその程度の人物として「正等に」マイナス評価をする。部落差別のせいで自分はこうなった、とその人が思っていたとしても、それは部落差別を解消する方向に動く思念ではない。
自分の子どもが結婚を望む相手が部落出身であった場合どうするか。思考の上では、上記の日常生活における態度と同じで、その相手を出身地ではなく、人格、実績を評価して判断するべき、と思うが、その時点で自分がどう考えるか、まだ曖昧な部分はある。この辺が差別の構図に自分が屈している点だとは思うのだけれど。
今後の課題である。