hoewl's moving castle

ハウルの動く城」を観てきた。観にいったのはもちろん教養のため。
総評としては宮崎作品らしい完成度で面白く、楽しめた。宮崎ブランドというやつですな。ただ、展開が魔法とかファンタジー界を素材としているのに、時系列を前後させる展開など使っており、そういう世界になれてない聴衆にはわかりにくい、ストーリーを把握しにくい内容だったかもしれない。
以下感じた点をいくつか。ネタばれになる部分もあるかと思うので、もし今から楽しみにして観にいこうとしてる方はお読みにならないことをお勧めします。
ハウルの声をキムタクがやったということで不評の前評判を聞いていたが、キムタクということを意識させる場面はほとんどなく、キャラクターにマッチした良い声だったと思う。三輪明弘とか我修院達也とかまたこいつらかよ、と思わせる部分はあるにしろ、声優はすべてナイスキャスティングだったと思う。いや、でもカルシファーは我修院である必要はないな。私にとっては、「PARTY7」や「鮫肌男と桃尻娘」の我修院があまりにも印象が強いのであれ以外のキャラとして彼を思い浮かべることができない。その点から言って彼はカルシファーに適さない。
この作品のキーポイントは「化身」ということにあると思う。
主人公ソフィーは美しくはない女性としてストーリーが始まる。彼女にはその劣等感があるというのがそもそもの設定上にある。けれどもその劣等感を十分に描ききってないと思う。劣等感と自分の生きたい様に生きられないそのルサンチマンで老婆へと姿を変えたとするのが妥当であると思う。劣等感を克服して、自分のやりたいことにむかって(この話の中ではハウルへの愛に自分の身を投げ出すことによって)、内面から人は美しくなれる、その結果として、老婆の姿から戻ることができる、ということを言うのが、まあ宮崎ブランドとしての正しいあり方だろう。もともとのコンプレックスをちゃんと描ききってないから、最初からソフィーはある程度美しかったかのような印象になってしまう。老婆に変身させられたことも、偶発的な不幸ではなく、彼女自身の内面の必然性が、その変身の原因となったように描くべきであったと思う。
老いというのは必ずしも醜いものでは無いが、醜い姿への変身ということをテーマとして思いつくのは、「アーサー王物語」の中の一つの寓話。私自身はひとからまたぎいた話なのだけれど。昔々あるところに幸せな結婚をする予定だった王子とお姫様がいて、例によって悪い魔女によってお姫様は呪いをかけられてしまう。お姫様は例によってとても美しい女性であったが、その呪いによって昼だけ美しく、夜は醜悪な容姿に変身してしまう、もしくは夜だけ美しく、昼は醜悪な容姿になってしまうか、そのどちらかを選ばざるを得ない状況となってしまう。そこでお姫様は、フィアンセの王子様に聞く。「私が昼だけ美しいのと、夜だけ美しいのと、どちらを選びますか?」と。まあ、昼と夜というのは、社会で人前に姿を現しているのが昼で、配偶者と二人だけで過ごす親密な時間が夜ということの寓意である。要は世間体として美しい妻であって欲しいのか、自分にとってだけ美しい妻であって欲しいのか、という選択だ。
この問いへの正しい答えは。いや、正しい答えなどないのだけれども、その寓話の中で、それを聞かれたフィアンセは「私には選べない。あなたが本当に望む方を選んでください。私はあなたが選んだことであればそれでいい。」と答えた。実はそう答えることこそが呪いを解く鍵であり、お姫様は昼も夜も美しいままであったとさ。そういう話。この話が寓意するところはいろいろあるけれども、特に「ハウル」と絡めるべき要素は、「化身」というものは誰のせいでもなく、どのような機序でそうなろうと本来化身した本人が引き受け、背負い、本来自分の持っていた問題点であることに気づき、自分で解決していかなければならない課題である、ということである。隣の国の王子様が呪いで蛙に変えられていたとしたら、本来その王子には蛙になりたいという抑圧された願望か、人格的に蛙に寓意されるような一面を本来持っていたと考えるべきだ。
さらに、作品中で、ソフィーはハウルへの愛が強くなり、自己献身の度合いが強くなるその度合いに応じて、老婆の姿から若い娘の姿に戻る。
ソフィーの見かけの年齢で、今、ソフィーがどの程度ハウルのために自分の身を捨てるつもりでいるのかが表されるのである。したがってそれによって中年女性程度になることもあるし、ほんとに若々しい情熱的な娘に戻ることもある。けれどもさらに、中年女性のときはハウルに対する「母性」が働いているような側面、もちろん娘の姿のときはハウルに対する恋愛感情が表現され、呪いが解ける条件という要素と、その女性としての愛の様態の様々が同時に表現されているのである。ただ、呪いを解くための条件がその両方を描くために明確にされず、流れとして呪いが解けたのは了解できるけれども、ハウルと火の悪魔の契約になんでソフィーの呪いが絡むのか、必然性が少しも理解できない。その辺もう少し細部の設定を考えて欲しかったところである。
「ありえなさ」への疲れ。ファンタジーではなんでもありである。幻想世界なのだからそれでいい。でも、最近のアニメ映画とかに多い、崩れていく橋のその崩れるぎりぎりで橋を渡り終えるとか、そういう描写はもうやめてほしい。怪物に食べられるその前歯の直前から助け出される、とかそういうの。普通は、そういう橋を渡っていたら下に落ちる。普通はそこまできたら怪物に食べられる。少なくとも片腕とかは食いちぎられる。魔法で過去へとタイムスリップする、そんなのはいい。設定だからそれは受け入れる。でもぎりぎりで助かるとか、そんな描写が続きすぎると、リアリティーがなくなる、観てて自分の住んでいるこの世界との隔たりが大きすぎて共感できなくなる。設定としては自分の住んでいるこの世界からどんなに隔たっていてもいいのである。そういう細かな描写でそういう共感を削いで行っている事にどうして作り手は気づかないのか。そういう描写とは異なるけれども、登場人物の心理の動きとしても「ありえなさ」を感じさせる部分はある。物語の最後の部分で、ソフィーが力を失ってただの老婆となった荒地の魔女から、ハウルの心臓を取り戻すところがある。あのとき、ソフィーは力づくで奪おうとはしなかった。そうすることが呪いを解くために必要だとソフィーが理解していた、と設定することもできるけれど、あれにはどうにも無理がある。「稲中卓球部」の「ゲース」の精神からすると「どうして自分にうそをついてまでさわやかにしようとするかね。なんでもっと汗水垂らさんかね。」と言いたくなる。そういう点で、ファンタジーとリアリティーを同居させることは、宮崎ブランドの世界においてはむずかしいのであろうか。教育的効果も十分意識すべき国民的ブランドとなってしまった以上は。
とまあ、以上思いついたことをいくつか書き留めてみた。辛口に書いている部分もあるが「化身」についての寓意を考えさせてくれた点、「耳をすませば」に帰着される恋愛時のさまざまなすばらしく感じられる世界、などで郷愁にさらしてくれる点など、良い作品だったのではないでしょうか。