国語

センター試験の問題が新聞に掲載されたら、私はいつも国語の問題を解いてみる。私はセンター試験の国語の問題が結構好きである。まあ古文漢文、現代文語文などはもう、どうでもいいが、現代文の読解とか、課題文の選択も面白いが、読解力問題の選択肢などに書いてある内容がいちいち面白い。センター試験の国語が私にとって面白いのは、日本語使用における、現代の最大公約数がどういうところにあるのか、というのが、ある程度見えてくる点にある。もちろん出題者の独断偏見が混じっているのは確かであるが、センター試験というものは日本の大学受験予定者のほとんどが通過する地点という意味で、なるべくそれを排除する方向で、修正が成されているはずなのである。
以前、「正しさ」ということについて書こうとしたことがあるが、私はいつまでも最大多数に支持されるから正しいと考えながら、支持される以前の「正しさ」を観念として捨てきれないでいる。したがって、このセンター試験の問題を解き、自分の選択が間違っていても、正解として掲載されている答えに自分の読解を修正するわけではない。けれども、その選択肢が正解にされるという事象自体にはとても興味を抱き、最大公約数的に、それがなぜなのかを理解したいと思う。
言葉の意味はどれが正解なのか。
これについて腹が減ったので早く塩ラーメンを食べに行きたいが、
[dialogue]1-15から引用してみる。

15.言葉の意味はだれが決める?
ぼく:ある言葉を間違った意味で使う人のほうが圧倒的な多数派になっちゃって、間違った意味の方が世の中で通用するようになったらどうなるの?そのときは、それが正しい、本当の意味になるんじゃないの?
ペネトレ:「情けはひとのためならず」って言葉、知ってる?
ぼく:知ってるよ。情けをかけることはその人のためにならないってことでしょ?
ペネトレ:ちがうよ。ほんとうは「人に情けをかけてやること、つまり同情して助けてやることは、結局は自分のためになる(から、情けをかけてやるべきだ)」っていう意味なんだよ。でも、いまはでは「人に情けをかけてやること、つまり同情して助けてやることは、結局はその人のためにならない(から、情けをかけてはならない)」って意味だと思って使っている人のほうが多いみたいだ。つまり。本当の意味は、自分のためという利己主義を根拠にして人に同情することをすすめるものなんだけど、通用している意味は、ひとのためという利他主義を根拠にして人に同情しないことをすすめるものなんだよ。だから、どちらもひとひねりしたものの見かたなんだけどね。
ぼく:ずるがしこいほうの意味が本当の意味なのか!
ペネトレ:そうなんだけど、そんなずるがしこい意味のことを、わざわざ人前で言わなきゃならないことなんて、あまりないだろ?むしろ、ほんとうは利己主義が原因で人を助けたくないときに、その口実として「同情して助けてやることはその人のためにならないんだ」って意味のことを、ひとまえでは言いたくなるんじゃないかな?つまり、意味が変わってきたのは、そういう必要の方が多かったからなんだ。意味が変わるのにも根拠はあるんだよ。圧倒的な多数派に支持されたから正しい意味になったんじゃなくて、それが必要だったから圧倒的な多数派に支持されるようになったはずなんだよ。もっとも、そのこと自体が、圧倒的な多数派の支持があった後で、はじめてわかることなんだけどね。→3-2