実在

午後になってちょっとだけ考える力が(書き込む力が)沸いてきた。
2回も引用文形式を使うことになるが再び永井均「子どものための哲学対話」より。

3-3物は見えるからあるのか、あるから見えるのか?
ペネトレ:世界のいろいろな物って、あるから見えたりさわれたりするのかな?それとも見えたりさわれたりするから、あるってことになるのかな?
ぼく:もちろん、あるから見えたりさわれたりするんだよ。
ペネトレ:でも、あるから見えたりさわれたりするんだってこと自体は、見えたりさわれたりするからこそ言えることなんじゃないかな?見えもさわれもしなかったら、あるなんてわかるわけないからね。
ぼく:わからないかもしれないけど、でも、わからなくてもあるんじゃない?
ペネトレ:そのわからなくてもあるってこと自体が、わかったあとでしか言えないことだろ?だから、ほんとうはやっぱり、存在しているってことじゃなくて、見えるってことが、すべての出発点なんだよ。
ぼく:じゃあ、見えもさわれもしなければ、物はないってこと?そんなのおかしいよ。見えなくても物はあって、それがときによって見えたり見えなかったりするんだよ。
ペネトレ:もちろん、それも正しいよ。だから、答えはやっぱり、物はたんに「見えるから存在する」のでもなければ、たんに「存在するから見える」のでもなくて、「<存在するから見える>というように見える」ってことになるんじゃないかな?
ぼく:??

この形式での問答はこの章で3回くらい繰り返される。重要なものについてはまた別のところで引用するかもしれないが、ここで言われている現象学的な視点は、いつも何かを考えるときに立ち寄らざるを得ない経由地であり、かつそこからどこにも到達できない迷路の始まりともなりうる場所である。この引用での最後の部分も納得がいかない。<>などという特殊な括弧を使ったところで「物は見えるからあるのか」「あるから見えるのか」という2択問題に答えたことにはならない。そして2択以外の答えを出さざるを得ないのなら、問い自体にどのような無理があったのかということを説明するべきである。
私には「見える」ところ、私の意識に立ち現れる事柄にしか立脚できないから、私は「物は見えるからある」という立場に立たざるを得ない。

地上から見ると、太陽が地球の周りを回っているように見えるけれども、地球は本当に太陽の周りを回っているのか。その時点で回っているとする立場の者の立つ視点はどこなのか。
また後日に続きます。