精神的長生き

このテーマは、誰かの執筆によるものではない。私の中高の同級生であり、大学で同じクラブに属したH氏が、大学入学したばかりのときに人生の目標として掲げていたテーマである。
彼は私と一緒に同じ大学の同じ学部を受験したのだが、私が合格し、彼は不合格となった。彼は一年浪人生として勉強し、一年後に同じところを受験し今度は合格した。彼を中学高校と知る私は、彼が常に真剣に目の前の課題に取り組み、世界や社会とのかかわりにおいて、彼が修行僧もしくは聖職者のように真摯に立ち向かうその姿勢に常に感心していた。私は彼にどう思われていただろう。彼に比べたら、私は要領がよく、またその分軽薄で、課題をいつも斜めから捉えて真っ向勝負はしないような、そんなキャラクターだったのではないかと思う。
いずれにしろ私と彼は、最初の受験のときに同じ部屋に泊まったというくらい、その大学への受験において、協力し合う関係であったので、彼の合格を私はとても喜んだし、そのあともよく一緒に飯を食べに行ったり、同じクラブで部活動をしたりした。
ある夜、彼の下宿で、なぜ彼がそのような、修行僧のような態度で、世界に立ち向かうことができるのかということを基本的な疑問として、私は彼と世界の関わり方について彼に話を聞く機会があった。そこで話題となったのは、曽野綾子の「塩狩峠」。「一粒の麦、地に落ちて死なずばただ一つにてあらん」。
我々は「塩狩峠」の信夫のようになることはできない。しかし人間の生きていく目標として、精神的長生き、ということがあると思う。信夫は生物学的な意味で寿命は短かった。またDNAも残すことはできなかった。けれども、彼の死を多くの人が記憶し、それによって人生に影響を受けた人がたくさんできた、ということは彼は精神的な意味で、長く生きたことになるのだ。彼の名前が残るということ自体が重要なのではなく、彼の残した何かが人類の中に行き続けていくということこそが、彼にとって幸福なのだと。彼はそう言っていた。科学的な発見とか、あらたな画期的な治療法の開発、また、ベストセラーとなり古典とされるほど人々に愛される小説、そうしたものも精神的な長生きの手段となる。生物学的な長生きよりも、利己的な遺伝子の自己拡張よりも、そうした精神的な長生きこそが、人間が生きていく上で目標として甲斐があるもので、またそれを達成しつつあるときこそ、人間的な幸福がある、と。
彼の主張は大体そういうことであった。
私には、それまでの「能動意志不可能説」(「人に頼ることについて」の章参照)があった。その「精神的長生き」という目標も、社会が個人の能力を最大限利用するために個々人に植え付けている、社会的欲求に過ぎない、と私は主張した。彼はそれに対しては、スピノザのような万物運命決定説、というか、すべて宇宙の出来事は、分子の動きのレベルから、因果律によって、決まっており、自分の今後の行動もすべて決まっているので、そのとおり進んでいくだけである、というような話をし、お互い何について話そうとしているのか分からないまま夜が更けていったように記憶する。