③人に頼ることについて

これも高校のときの国語の授業での教材。筆者は三木卓。この人が何を書く人なのかははっきりわからない。満州から引き上げてきた人で、足に不自由がある、童話の翻訳とか、そんなこともしてる人。
けれども、この人の、「人を頼ることについて」という文章は私に大きな影響を与えた。
はじまりはこんな感じだったと思う。「人を信じます、という人がいる。あなたなんか信じられない、という人がいる。どちらも言いたいことは分かるけど、ちょっと違うんじゃないかと思う。」あるいはこれは違う文章の出だしだったか。
内容をまとめるとこういうことになる。私はさまざまな人の援助のおかげでここまで生きてくることができた。現在の仕事ができるのも巡りあわせで私にチャンスと支援を与えてくれた、周囲の人々のおかげなのである。私はそうした人々に深く感謝するけれども、そうした援助の中にある仕組みがあることに気づいた。ある人にチャンスをもらって、大きな仕事を任せてもらえたとき、それは大きな喜びであるが、その分、私は努力をしなければならない。その仕事をなるべくうまく仕上げ、期待に応えるために自分の持てる最大限の能力と努力を要求される。つまり社会は、個々人から能力とか努力とかそういうエネルギーを最大限吸い取るようにしていくための、パイプ構造のようなものがある。その人の能力を見極めて、それをもっとも有効的に利用できるような職業や地位にその人を押し上げて、その人の持てる能力を最大限利用する。そうしていこうとする動きが社会にはある。善意や励ましや、好意でしてもらっている援助や支援のはずであるが、その背後には、その人のエネルギーを最大限活用しようとする社会の仕組みがある。もちろん、自分の能力を最大限有効に社会に生かせることは、個人の至福の喜びである。けれども、それが至福の喜びであることも、それを個人の幸福として規定することで、それを個々人に目指させるという社会の側からの圧力が働いているとも考えられる。功名心とか名誉欲というものは、そういう仕組みに裏打ちされた欲求とも考えられるのだ。
私の意訳が混じってはいるが、大体こんな内容だった。
私が試行錯誤、自分の意志を探している時に現れたこの文章により、私はますます自分の意志などというものが純粋な形ではありえないことを悟らされた。「名を成」したいなどという気持ちが実は社会からの要請によるものであると。以前に、本当に自分の意志によるといえる行為は自殺のみであるということを書いたが、これはそのころのそういう考えからだった。
いまでは、そこまでその意志が、私自身のものであることにこだわる気持ちはない。それが社会の要請によるものであろうと、自分のDNAによる要請であろうと、自分が欲求し、それで快楽が得られる行為であれば、私は厭わない。けれども当時の私にとっては、それは大きな問題だった。