これは高校のときの得体の知れない国語教師F氏の授業で使われた教材だった。彼はいつも仁丹というのを食べてから授業を始めるので、一番前の方の席にいた私はいつも仁丹の辛気臭い匂いがすることが嫌だった。
誰が書いたものだったかはもう不明。梅棹忠雄とかそういう感じの名前だった気がするが、現在グーグルで検索した限りではそういうものは検出されない。
筋を書くと、あるところに社交性に乏しいある男がいて、自宅で暇なときには庭でタバコを吸うくらいであったが、あるとき庭に造園家業風の男が現れ、この男が、ここに木を植えたらいい庭になるから、私に任せてくれ、と言ってきた。そんな金はないから、木はいらない、と男は答えるが、お金のことは心配要らないから私に任せておけ、と作業服姿の男は言う。お金が要らないならそれなら頼む、ということになり、あくる日から、次々と木が運ばれてくる。いろんな木が庭に植えられ、それを見る楽しみができた男は満足していたが、どんどん木が増え、また気づかないうちに植えられていた木がまたどこかに持っていかれる、というようなことが起こる。そしてある日、植えられていたざくろの木から実を一つもいで食べていると、作業服の男にたしなめられる。「ざくろは食うもんじゃない、眺めるものだよ」と。そこで何か腑に落ちない気分を味わう男だったが、数日後、あることに気づく。それは、自分の庭はいつの間にか、造園家の貯木場とされていたのであり、土地を利用されていただけだったということだ。「俺の庭は、俺の庭のように見えて実はまったく違っていた。他人にうまく利用されていたんじゃないか」ということに気づいて、男は愕然とした、というところで話が終わる。
これは、「勘違い」の話である。ヘンゼルとグレーテルが幸せの青い鳥を探しに出かけるが、実は長い旅を終えて帰ってきてみると自宅にもともと飼っていた鳥が青い鳥であった、というのと似ている。本当はあのころ、幸せだったのに、自分はそれに気づいていなかった、とか。
こういう「勘違い」をなるべく無くしたい、正しい事実認識をしていたい、と私は常に思っていた。この「庭」を読んだとき、はっきりとした感想は何も浮かばなかった。この話のどういうところに面白みがあるのかさっぱりわからず、ただの「勘違い」の話として理解していた。そのとき教師のF氏はこの話の面白みが君らに分かるのはまだだいぶ先の話かもしれない、などと言っていた。だいぶ先となった現在、やはり彼の言う意味での面白さは分かってないのかもしれないが、そのとき高校生だった私に、この話は、自分の意志というものがあると思っていても、それは他人にうまく利用されているだけかもしれない、という疑いの視点、を与えてくれることになった。
高校生の私は自分の意志で行動したい、将来を選択したい、と常に思っていた。そして自分の意志は、好みは、どういう方向なのかを決定したいと思っていた。けれども自分が描く将来の希望の中に、両親の希望や社会からの期待、世間体といったものが混入してきて、それを無視した将来を描くことはできなかった。逆に言えば、私には、私の周囲の人間関係を壊したり、周囲の期待を裏切ってまで達成したいような自分の強い希望とか、自分の適性というものを見出せなかったのだ。
そうした視点を得た私の前に、さらに「人に頼ることについて」という三木卓の文章が現れる。