1985年

私が物心ついたと言えるのは、3-4歳のときともいえるが、色々な刺激を蓄積して、自分なりに世界というものを捉えるようになってきたのは小学校3-4年のことであったと思う。小学校の担任がひどく左よりの教師で、黒板の日付も、「私は昭和などの年号は使いません。西暦での日付を使ってください」などという人であった。おそらくそういうラディカルな教師の政治的態度が私に影響を与えたのであろう、一般的には反抗期と呼ばれても良いような、教師に歯向かう、さまざまな非行と呼ばれる行為をする、など荒れた時期を過ごしたのであった。
時は1985年。世界は米ソの冷戦時代と言われていた。東西に分かれた大国の所持する核兵器によって、ボタン一つ間違って押されると、人類はほぼ全滅し、世界は焦土と化す、という警句が常に私たちの耳に飛び込んできていた。核兵器使用後の世界を舞台にした、北斗の拳、ザ・デイアフター、なんか老夫婦が世界の崩壊とともに滅びていく絵本とか、そんなものが身の回りに溢れていた。子どもだから、物事の喪失ということの意味をはっきり分かっていたとは思えない。けれども、何かをがんばって築きあげても、私の意志の届かないところの気まぐれによって、一瞬にしてすべてが失われてしまう、そういう世界に私は住んでいるんだという、その世界認識は児童期の私の中に深く根を下ろした。
そうした世界認識であれば、刹那主義、快楽主義に陥りそうなものであるが、私は受験競争という舞台のなかで、それを楽しんで比較的その中でうまく過ごし、一般的に評価されうる成果をあげることができた。
けれども、私の人生観の奥底には、この児童期の、私の世界はいつでも誰か他人によって簡単に壊されてしまう可能性のある性質のものであるという諦念はずっと通奏低音として流れていると思う。