friend(2-6)

さて、章としては一個飛ばしました。が、これから引用する部分が、いままで私が一連の引用をしてきた中で、もっとも印象が強かった部分です。第2章はまだ続くのですが、この部分まででひとまとまりとしたいと思います。

2-6 友だちは必要か?
ペネトレ:友だちって、必要だと思うかい?
ぼく:そりゃあ、絶対、必要だよ。ひとりぼっちじゃ、さびしいじゃん。
ペネトレ:ぼくは友だちなんかいなくたって、ぜんぜん平気だよ。
ぼく:ペネトレは猫だからさ。
ペネトレ:人間だって、ほんとうは、おなじなんじゃないかな。いまの人間たちは、なにかまちがったことを、みんなで信じこみあってるような気がするよ。それがいまの世の中を成り立たせるために必要な、公式の答えなんだろうけどね。でも、その公式は受け入れないこともできるものだってことを、わすれちゃいけないよ。
ぼく:猫のことは知らないけど、人間は、自分のことをほんとうにわかってくれる人がいなくては、生きていけないものなんだよ。
ペネトレ:そんなことはないさ。そんな人はいなくたって生きていけるさ。それが人間が本来持っていた強さじゃないかな。ひとから理解されたり、認められたり、必要とされたりすることが、いちばんたいせつなことだっていうのは、いまの人間たちが共通に信じこまされている、まちがった信仰なんだ。
ぼく:そんなことを言ったのはペネトレだけだよ。
ペネトレ:人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ。そして、友情って、本来、友だちなんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、成り立たないものなんじゃないかな?
ぼく:そんなはなしは、はじめて聞いたよ。

この章では、根拠が述べられてないです。なぜ、間違っているといえるのか、なぜそれが本来学ぶべきことなのか。具体例もあげられてないし、ただ、そうだ、と述べられるだけ。でも、説得力があります。特に、「友情って、本来、友だちなんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、成り立たないもの」のくだりには、やっぱりそうだよなあ、と思いました。
ここで述べられてる「まちがった信仰」は、私にとっても、現在とても根強いです。誰かに自分を理解してもらいたい、と。そういう気持ちがあるから、こんなブログを書いたりしてるわけです。それがなぜ、「まちがって」いるのか。おそらくそれは、なにかに対する盲目的な依存か、幻想信仰にしか到達できないからなのでしょう。自分にすら、「ほんとうの自分」などというものがどんなものなのかわかってないのに、それを人に理解してもらいたいなどというのは、欲しているものが何かわからないままに欲している、そういう状態です。何もそういうものを頼らず、いまの自分のあり方に満足し、自分の進みたい方向に毎日を積み重ねていく。そうなりたい、という気持ちがあります。でもそれはむずかしい。今後も仕事や趣味、子どもとの関係などで時間を積み重ねていくことで、すこしでもそういうあり方に近づいて、「友だちなんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、成り立たない」友情を、誰かと築くことができたらいいなあ、と思います。

「元気がでないときどうしたらいいか?」からはじまる一連の引用はこれで終わりとします。また、引用をするときはあると思いますが、ここまでで終わるということが、現在の私の心境や立場として、ふさわしい気がするのです。