honesty

オペ中に、Billy Joelの"Honesty"がかかっていた。執刀ではないので暇であり、好きな曲でもあり、聴き入っていた。
聴いていていつもと違うひっかかりを覚えたのは、多分ここを読んでいたからだ。id:sledoni:20041019#p4
誠実であるとはどういうことだろうか。その言葉が使われる状況にもよるだろう。商取引の場で、誠実というのは契約をきちんと履行し、相手の無知に乗じて値段をふっかけたりせず、相場に従った妥当な値段で商品を顧客に提供するというような姿勢のことを言うだろう。医療契約においては事前に、その医療行為によって起こる可能性のある合併症とその確立について十分説明した上で、自分たちのミスで合併症が生じた場合にはその事実を隠蔽せずに説明し、できうる限りの努力で、事態改善のための事後処置を講じることだろう。社会においてはそのようなあり方が誠意ある態度と呼ばれている気がする。
もっと個人的な人間関係、具体的には友達とか家族とか恋人とか、その間での誠実ってのはなんだろうか。表向きをいえば嘘をつかないことになるだろう。ありのまま、思ったままを表現することだろうか。Billy氏が歌っているところのものも多分これだ。でも、それは本当に可能なことだろうか。もしくは関係を良好なものにしていくことを目標とした観点において、妥当な態度といえるだろうか。
一人暮らしをしていれば、一人で過ごす時間は結構ある。一人でいるとき、私はありのままであり、思ったままに行動している。誰か親しい人間、もしくは親しくしたい人間とともに過ごすときは、私はこの一人で過ごしているときのようにありのままであることが、その人に対して誠実であることになるとは考えない。誰かとともに過ごすとき、私は多少はその人に気に入られ、嫌われないための努力をする。そういう努力をまったくせずに、思ったまま、ありのままにして、仲良くできるというほど、相性のいい人間は、たとえ家族であってもいないと思っている。むしろ、そういう努力が要らない場合は、たとえ誰かと一緒にいたとしても、一人でいるのと同じだ。そして、そういう努力をすることの方が、しないことよりも、一緒にいる相手に対して、むしろ誠実な態度だと思う。結果的には、ありのままの自分を多少着飾って、相手を欺いているのだとしても。
ほかの人間にこういう風に見られたい、こういう自分でありたい、という方向性も含めて自分なんだと思う。その方向性がまだ実現されていないとしても、他人との関係の中でそのようにありたいという希望が自分にあるならば、その努力を放棄する口実として「誠実」という言葉が使用されてはならないと思う。そのような、相手と良好な関係を保つために、相手が努力してせっかく作り上げられたところの虚飾まで、相手から奪い去り、その先に自分の望む相手の姿を見ようとしても、それは無理なことだろう。
裸のままで美しいと。そういうことがあればいいけれど、むしろ着飾って相手に気に入られようとしている事実を、関係を良好に保とうとする相手の意思の確証としなければならない場合もあるだろう。
ここまで述べてきたことはある一面であり、それだけでないこともわかっている。ある特定の相手に対して、誠実であろうとすること。それは、その相手との関係を最優先し、ほかの他人との関係を劣位に置くこと、といえるだろうか。そのような意味でも誠実という言葉は使われる。けれども、その誠実も、その関係が自分にとって持つ意味の最大限の優先度が適応されるのであって、相手から要求され、期待される優先度と必ずしも一致するものではない。そういう意味においても、「誠実」は、自分が相手にとってそうあろうとする目標でありこそすれ、相手に要求していいような性質のものではないだろう。
mostly what i need from you.か。
そりゃちょっと無理言い過ぎですぜ。Billyの旦那。