非教育的態度

二日前だったか、子どもに意地悪をした。
最近、子どもは、風呂に入るために衣服を脱いだり、電気のスイッチを入れるのを自分でしたいといって、親が先にやってしまうと、自尊心を傷つけられるのか激しく泣く。こちらにも都合というものがあり、子どもがゆっくりやっているのを待つわけには行かないからどうしても手を出してやってしまう。そうすると子どもは怒って反ってそれをしなくなり、泣いて暴れるのである。
一昨日風呂に入れたときあまりに言うことを聞かないので、手荒く扱って浴槽に子どもを放り込み、ずっと泣くに任せて自分の洗髪をし、時々頭からシャワーを浴びせてやったりした。
要は言うことを聞かずに泣いてばかりいる子どもに腹を立て、感情に任せていじめのようなことをしてしまったのだ。
子どもは可愛いと思っている。あとから思い出すとつらい。浴槽の中で一人立ち尽くし、息もできないくらいシャワーを顔から浴びせられて、泣きじゃくっていた子供のことを思い出すと、どうしてあんなひどいことをしてしまったのかと、ひどく後悔する。しかしそのときはどうしても腹立たしい気持ちが抑えられなかった。
恐らく児童虐待はこういう気持ちに従って行われるのだろう。自分でももうそれがほとんど虐待するときの気持ちであることが了解できる。

自分の中にそうやって、感情を抑えられず、暴走してしまう自分がいる。恐らくそれは、そのときの一時的な感情で起こったことではなく、毎日少しずつ我慢して、自分の中にたまってきていた、子どもや家族に対する鬱憤が暴発したものだろう。さらに根を深くたどれば自分が幼少時に受けてきた親からのしつけと現在のうちの子供が受けているしつけとのギャップに感じてきた違和感に根ざすものかもしれない。
大人なのだから、気分転換をすることができなければ、と思う。子どもはなぜそこまで親が怒り、ひどく折檻されたのか全く理解できていないだろう。実際子どもはそこまで叱られるようなことはしていないのであり、あくまでそのときの暴発は私の内部での問題なのである。
こんなことはもう2度と無いようにしてやりたい。子どもが、他人にこんな目に合わされているのを見たら、恐らく私はその他人に殺意を覚えるだろう。けれど、避けられず、子どもはこれからもこんな目にあうに違いない。なぜならうちの子供は私を親として持ってしまったからだ。
これは、私という人間の根幹に関わる部分からの感情の暴発であり、既に幼少時から、妹など、身近な家族の弱者に対して、こういう出来事は何度も生じている。私が私でなくなるしか、この暴発の再発を防ぐ方法は無いのだ。これから、何度この子はこんな目にあうのだろうと思うと、不憫でならない。