ネクラとネアカ

もうすでに引用済みかと思っていたけれど、検索したら無いので、久しぶりの引用。
以下は永井均著「子どものための哲学対話」よりの引用となります。

1-3 ネクラとネアカ
ペネトレ:「ネアカ」と「ネクラ」って言葉、知ってる?
ぼく:聞いたことはあるけど意味はわからない。
ペネトレ:ネアカっていうのは、根が明るいってことで、ネクラっていうのは根が暗いってことなんだよ。表面的な明るさや暗さじゃないよ。根だよ。根が明るいってことがだいじなんだ。根が明るい人っていうのはね、いつも自分の中では遊んでいる人ってことだよ。勉強しているときも、仕事しているときも、何か目標のために努力しているときも、なぜかいつもそのこと自体が楽しい人だな。
ぼく:たったひとりのときでも?
ペネトレ:そうだよ。根が明るいっていうのはね、なぜだか、根本的に、自分自身で満ちたりているってことなんだ。なんにも意味のあることをしていなくても、ほかのだれにも認めてもらわなくても、ただ存在しているだけで満ちたりているってことなんだよ。それが上品ってことでもあるんだ。根が暗いっていうのはその逆でね、なにか意味のあることをしたり、ほかのだれかに認めてもらわなくては、満たされない人のことなんだ。それが下品ってことさ。(→2-6)
ぼく:つまり、いい人か悪い人かってこと?
ペネトレ:ちがうよ。いい人か悪い人かなんて、そうたいした区別じゃないさ。すこしましな区別はね、ちゃんとした人かどうしようもないやつかっていう区別だな。(→2-9)これは育ちの問題だ。でも、もっとだいじなのは、根が明るいか暗いかだね。これは生まれの問題なんだ。
ぼく:生まれって、どういうこと?
ペネトレ:生まれっていっても、家柄や血筋のことじゃないよ。どういうわけかたまたま、生まれつきそういう人間だったってことさ。
ぼく:生まれつきなら、生まれちゃってからあとでは、もうどうしようもないじゃん?
ペネトレ:それがそうでもないんだな。ぼくの言うことを聞いていればね。

使われている挿絵が非常にわかりやすい。穴を掘っている二人の人物。一人は格好もみすぼらしく、見た目に明るくは無いけれど、ただ穴を掘ることが楽しくて掘り続けている中年男性。もう一人は、自分が穴を掘っていることを周囲にアピールするための看板や、着飾った衣装で、周囲に自分の掘った穴への感想を求めながら掘っている若年男性。後者が「ネクラ」なのは明らかだ。
明らかにここでは「ネアカ」の方が「ネクラ」よりも望ましい状態として評価されている。「ネアカ」に変わるための方法も今後教示されそうな終わり方をしている節である。しかし2章9節で再び語られる「ネクラとネアカ」では、その二つが固定した二つの生き方として描写される。それが「根」の問題である以上、移行は難しいと考えるが、、、
SNCのところでも言ったように、ネットにブログを公開する、ということ自体「ネクラ」な行為である。さらにはカウンター数を気にするというのも「ネクラ」な在り方である。
けれど、そのように生まれついている以上はそうして生きていくしかない。
私自身が「ネアカ」になるための方法と認識しているのは、ひとつの事柄に専心することだ。手術であれ、クラシックギターの演奏であれ、ゲームであれ、本当にのめりこんだときには、他人の評価など気にせず、自他の区別もなくなるような、「入神の域」というものが確かに存在する。それが自分に訪れる、ごく短い「ネアカ」な時間なのではないかと考えている。