星の銀貨 完成

4日前に書いたことではあるが、以下は永井均氏著作「ルサンチマンの哲学」というニーチェの道徳論を解説した書物からの引用である。コピーペーストにより話が完成した。

「星の銀貨の主題による3つの変奏」
1.最初のお話
むかしむかし、あるところに、ひとりの少女が住んでいました。お父さんもお母さんも死んでしまって、食べ物も住む家もなくなり、シャツとスカートとひときれのパンだけが、少女に残されました。
少女がパンを持って原っぱをとぼとぼと歩いていくと、貧しい男がやってきました。その男は少女に「手に持っているパンを私におくれ。おなかがぺこぺこなんだ。」と言いました。かわいそうに思った少女は、その男にパンをあげました。
少女がまたとぼとぼ歩いていくと、はくスカートのない女の子が少女のはいているスカートを欲しがりました。かわいそうに思った少女は、はいていたスカートをその女の子にあげました。
夜になり、少女が森にさしかかると、そこに着るシャツのない男の子がいて、言いました。「着ているシャツをぼくに下さい。寒くて死にそうなんです。」少女は少し迷いましたが、その子があまり寒そうなので、着ていたシャツを脱いで、男の子にあげました。
少女が寒さにこごえながらうずくまっているとどうしたことでしょう、空からたくさんの星が降ってきて、それがぜんぶ、ぴかぴかの銀貨になったのです。そして気がつくと、少女はぴかぴかに輝く新品のシャツとスカートを身につけていました。
2.二番目のお話
むかし、ある別のところに、別の少女が住んでいました。その少女は最初の少女のことを聞いて知っていたので、そんなふうになりたいな、と思っていました。
幸か不幸か、お父さんもお母さんも早く亡くなり、思いどおりの貧しい少女になることができたので、さっそく原っぱに出て行って、腹ぺこの男や、はくスカートのない女の子や、着るシャツのない男の子を、探しました。
運のいいことに、腹ぺこの男もスカートのない女の子もシャツのない男の子もすぐに見つかったので、少女は自分の持っていたすべてのものを、気前よくあげまくりました。そんなつまらないものよりも、星の銀貨が欲しくて欲しくてたまらなかったからです。
少女はうずくまり、いまかいまかと待っていると、思ったとおり、空から星が降ってきて、銀貨に変わりました。少女は満たされた気持ちになりました。ほんとうに価値があるのは、パンや衣服ではなく、星の銀貨であることを、始めから知っていたからです。
3.最後のお話
またある別のところに、また別の少女が住んでいました。その少女は最初の少女のことも二番目の少女のことも聞いて知っていて、なんだか嫌な子たちだな、と思っていました。
そのうち、お父さんもお母さんも早く亡くなり、なんとまえの二人の少女たちと同じ境遇になってしまいました。でも少女は「私はあの子たちとはちがう。星の銀貨なんかいらない。」と決心して、原っぱに出て行きました。
少女は、腹ぺこの男に会っても、スカートのない女の子に会っても、シャツのない男の子に会っても、同情せずに、その都度、こう言いました。「わたしも私の苦しみに自分で耐えるから、あなたもあなたの苦しみに自分で耐えてね。わたし、あなたに会わなかったことにするわ。だから、あなたもわたしに会わなかったことにしてね。」少女は、みんなが自分の運命を受け入れることを望み、自分も自分の運命をそのまま受け入れたのです。
少女が寒さにこごえながら、うずくまっていても、星たちは空高く輝いていました。「これでいいわ。これがわたしの人生なんだもの。何度でもこういう人生をおくりたい……」とつぶやいて、少女は死んでいきました。夜空の星たちは、遠くから、その少女を照らしつづけていました。
4.あの世での少女たちの会話
最後の少女が、ほかの二人にこう言いました。
「あなたたち、もし星が降ってこなかったら、自分の人生を肯定できなかったでしょうね。人生を恨んだでしょうね。私はちがうわ。星の銀貨なんかなくたって、この人生それ自体を受け入れ、肯定することができるわ。あなたたちなんて、星の銀貨っていう、人生そのものの中にない、虚無によって救われているんだもの。気持ち悪い。幽霊みたい。」
最初の少女がそれに反論して言いました。
「あなたも、あの子と同じ。星の銀貨のことがちっともわかっていない。星はね、気の毒な人たちにパンやシャツやスカートを差し出したら、そのとき、私の心の中で降っていたのよ。あとから降ってきたんじゃない……」
最後の少女がその反論に応えて言いました。
「そんなこと、知ってるわよ。あの子だって、その見えない銀貨が欲しかったのよ。あの子もあなたも、やっぱり本当に欲しいのは銀貨なんでしょ?わたしはそれが嫌なの。わたしはね、その銀貨がどんなものだとしても、そういうものだけは欲しくないのよ。わたし、そういうものを欲しがる人が、いちばん汚い人だと思うわ。あなたたちって、不潔よ。」
すると、今まで黙っていた二番目の少女が口を開きました。
「わたしは始めから、ただ銀貨が欲しかっただけ。この世でも、あの世でも、それがほんとうに使える銀貨なら、どんな種類の銀貨だって、わたしはかまわない。あなたたちってなんか変。どこか似ている……」
最初の少女と最後の少女は顔を見合わせ、最初の少女はその少女を気の毒に思い、最後の少女はその少女から眼をそむけました。

この話は、ニーチェの道徳論、特に、キリスト教利他主義-相互扶助の精神が実は「弱者の価値転換による奴隷一揆」をその起源としているとする、主張を軸とした、道徳に関する哲学的な考察を、解説した書物の序文である。
従って、この少女のうちの誰かはニーチェの立場を代弁しているのであり、まあ明らかにその少女は3番目の少女である。「人生そのもの中にない虚無」という発現は、ニーチェ実存主義的な立場を表すし、「何度でも同じ人生を歩みたい」のところは「永遠回帰」というニーチェのテーマの一つを表現していると考えられる。
以下は、この話について私が現在考える内容であるが、うまく表現しきれていない気がするので、「続きを読む」の中にしまっておく。
ニーチェの主張がどうであるかということと関係なく、この話は人生に対する自分の姿勢がどういうものであるか、ということを考える一つのきっかけになる。この3人の少女たちは、何について争っていて、自分はどの立場にあるのかを、考えることができる。
私自身について言えば、私は3番目の少女の立場に立ちながら、2番目の少女のようなあり方に、強く憧れている、という状態だろうか。どう感じるかは人それぞれだが、私はこの話の中で最終的に優位に立ったのは2番目の少女であったと感じるし、3番目の少女こそが、この「あの世での少女たちの会話」がなかったら、報われなかったと考えられるような人生だったと考えられる。つまり、人が信じている幻想を、虚無として否定してかかって、それを相手に認めさせるようにしなければ、自分が報われないというような病的な人生の歩み方をしていると考えられるのである。
人は、幻想なしには生きられない。死ねない。それがどういうことかといえば、まず、自分の人生が、世界にとって有意味であり、なにか永続的な価値を持ちうるというような、保証が欲しくても、それは人生自体の中にはない。さらにまた、人は自分の人生の外に出ることはできないから、その外を、幻想や妄想によって思い描き、宗教や信念によって自分の人生を「外から」保証しているかのように錯覚して生きていく必要がある。そして、そういう保証や「外から」の意味づけを求めずに、ただ日々の積み重ねの中に喜びと充溢を見出し、ただ、「意味なく」日々を生きていこうとするのが実存主義だ。少なくとも私はそう理解している。そして、原理的には実存的にしか生きていけないと知りながらも、それだけでは、頼りなく、心もとないので、幻想と知りながら、幻想を求める。幻想かどうかを問わずに、ただ銀貨が欲しいと、生きていけることに憧れながら。