感情(2-3)

続きです。

2-3 原因がわかると感情は消える?
ぼく:ペネトレはまえに言ってたよね?いやな気持ちほど、心の中でくりかえして味わっていたくなるって。それから、元気を出すためには、いやな気持ちになった原因を徹底的に考えてみるといいって。ということはつまり、いやな気持ちにひたりきることと、その原因を理解しようとすることは、逆のことなんだね?
ペネトレ:よく気がついたね!ある感情がわきおこってきた原因をよく理解すると、その感情がうすれたり、消えたりすることがあるんだよ。つまり、頭でよくよくわかってないから、いつまでも心でもやもや感じちゃうんだよ。
ぼく:うん。頭と心のちがいだね?
ペネトレ:たとえばね、きみのクラスに、いやなやつがいるだろう。きみがどうしても好きになれないやつ。でもね、どんないやなやつだって、そうならざるをえなかった必然性というものがあるんだ。どうしようもなく、そうなっちゃっているんだよ。その人はね、自分がであってきたいろんな問題を自分の中でうまく処理するために、そういう人格をつくることがどうしても必要だったんだよ。そうでしかありえなかったんだよ。その人がそうでしかありえなかった理由が、ぜんぶすっかり理解できたなら、その人に対してきみがいだいている感情は、消えてなくなるんだ。
ぼく:ほんとうに、消えてなくなるかな?
ペネトレ:いや、じつをいうとね、すべてを理解しつくせても、たまたまそこに自分がいたという不運の感情だけは消せないんだ。理解するってことは、そういうことはあって当然なんだって思えるようになることなんだけど、自分が存在しているということは、けっして当然のことではないからね。

身の回りのいやな人だけではなく、犯罪者にしろ、もちろんそうならざるを得なかった事情というものがあるのでしょう。けれども、だからといってそのいやな人が自分のそばに存在しているということ、その犯罪が起こってしまったことという不運の感情は消せない。もっともですね。この不運の感情から、永井均は彼のテーマであるところの<私>の存在の特異性について話をつなげていくのです。しかし、この<私>については、私はまだよく彼の言いたいことがわかっていません。彼は本来言及不可能なことに言及しようとしているようなそういう印象があるし、また、言ったところでごくごく当然なことを言っているような、それを言ったところで、どういうインパクト、もしくは効果があるのかわからないような印象を受けています。
身の回りのいやな人、については心理学的には「影」という概念があります。ル・グウィンゲド戦記」の「影との戦い」ですね。わかりやすく言うと同属嫌悪。身の回りのいやな人というのは、自分になんらかの関係ある要素を持っているのです。自分の欠点をより、わかりやすく幼稚な形で表出して、さらけ出しているような人間を見ると、自分が必死で隠している欠点を見せ付けられているようで腹が立つ、というように。ゲドが最後に「影」と一体化したように、心理学的には、影と敵対し続けるのではなく、自分の一面であることを受け入れて、納得する必要があるとされます。この作業の具体的な方法として、その「影」がそうならざるを得なかった理由を、言い換えれば、自分がそんな欠点を背負わなければならなかったその必然性を、理解しようとすることは、こうしたいやな感情や、影との葛藤を解消するのに、有効な手段と考えます。